戦争関連

2016年10月29日 (土)

古絵葉書 陸軍凱旋観兵式紀念(日露戦役)

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 「奉天におけるわが軍首脳部八大将軍」との英文キャプションが入った一葉です。

 1906年(明治39年)4月30日に、陸軍による日露戦役凱旋大観兵式が、青山練兵場(現在の明治神宮外苑)で挙行されています。絵葉書はその記念として逓信省より、4月29日に1葉5銭で100万枚発行されたもので、「二元帥六大将」の寛いだ様子で有名な写真を使用した絵柄です。

 左から、第一軍司令官・黒木為楨(くろきためもと)大将(61)、第四軍司令官・野津道貫(のづみちつら)大将(63)、参謀総長・山県有朋(やまがたありとも)元帥(67)、満州軍総司令官・大山巌(おおやまいわお)元帥(63)、第二軍司令官・奥保鞏(おくやすかた)大将(58)、第三軍司令官・乃木希典(のぎまれすけ)大将(55)、陸軍参謀次長・児玉源太郎(こだまげんたろう)大将(53)、鴨緑江軍司令官・川村景明(かわむらかげあき)大将(55)。

 奉天会戦が1905年3月1日、5月27日の日本海海戦を経て、7月26日(或いは25日)、奉天の満州軍総司令部に山県元帥が現れ、ロシアとの講和が始まることを伝えます。大将たちが寛いだ表情なのも頷けるのではないでしょうか。

 個人的には川村大将の笑顔が好きですね。


(参考)
 向後恵里子著「逓信省発行日露戦役紀念絵葉書-その実相と意義-」
 新潮社「FOCUS」誌 平成11年5月26日号

2016年9月 6日 (火)

古絵葉書 第一艦隊司令長官海軍中将加藤友三郎

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 司馬遼太郎著「坂の上の雲」で初めて知った明治大正の軍人です。後に総理大臣を任ぜられ、最終的には元帥海軍大将になられた方です。

 絵葉書の加藤「中将」は、1913年(大正2年)から翌々年(大正4年)までの間の光景です。第一艦隊司令長官に任ぜられたのは大正2年12月1日で、大正4年8月10日に司令長官を免ぜられ海軍大臣に任ぜられています。(ちなみに同年8月28日に海軍大将に任ぜられています) 期間のほとんどが海の上であり、途中、昭憲皇太后崩御の大正三年4or5月頃に帰国できたくらいではないかと推測しますが如何でしょうか。そうすると絵葉書の光景は司令長官任命直後ということになりそうです。

 第一艦隊とは在役艦艇中の精鋭により編成され、司令長官は天皇陛下に直隷して艦隊を統率していたそうです。なお、第二艦隊と合同すると連合艦隊となるようです。

 第一艦隊司令長官在任中に、第一次世界大戦が勃発し、日本は青島にアジアの拠点を持つドイツと交戦しました。第一艦隊は、戦艦摂津を旗艦として、黄海より東海北部にかけてドイツ艦船の捜索に当たり、また、青島攻撃軍の輸送を援護し、航路の安全を確保していたと記録されています。

 首相就任時のエピソードとして東京日日新聞は次のような記事を掲載しています。 「...そしてホッと一息する間もなく、廊下に立ちふさがっていた記者団の襲撃に、新首相よほど面食らったと見えて、右手に握っていた辞令を不覚にも廊下に取り落とし、あわてて拾い上げる格好と言ったら...... 一同の祝辞に「いや有難う」とぶっきら棒ながらやっぱりうれしそう 『感想ってなにもないよ、なに今日だけは笑えって? はは! なかなか君らはうまいこと言うね。何とかかとかしゃべらしてタネにする気だな』 とすこぶるご機嫌の態。廊下をテクリテクリ歩きながら 『俺の好きなものか、そうさうーん、孫どもじゃ、よく君は知っちょるねー、これから宮様方にお礼回りして、孫どもと夕飯じゃ、家内がもう婆アだがね、喜ぶじゃろうよ』」 家族を愛する人柄がよく表れているような気がします。

 1923年(大正12年)8月24日(公表では25日)、首相在任中に死去されました。東京日日新聞は次のように哀悼の意を表しています。 「加藤友三郎男は、とうとう死んだ。総理大臣として死んだことはむしろその本望であろうけれども、あまりにあっけない死に方であった。われらは、その病症の癌腫であることを知り、到底再起の見込み無きことを期してはいたが、かくまで速やかに、息を引き取ろうとは思わなかった。 ...われらはむしろその海軍大臣として、またワシントン会議の特使としての手腕と功労とに推服おかざるものである。冷静にして私心なき、一国の首相としてその資格に欠くるところはなかったであろう。」 また 「あの頭脳は当代の誇りであった」 とも述べています。非常に惜しまれた方であったことがわかります。

 加藤友三郎元帥が首相在任中に急死されてから8日後の、9月1日。関東大震災が発生しています。

 (参考 「歴代総理大臣伝記叢書 第13巻 加藤友三郎」 ゆまに書房刊)

2016年8月27日 (土)

古絵葉書 逓信省発行日露戦役紀念絵葉書 その参

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 上から順番に、「篤志看護婦人会総裁閑院宮妃智恵子殿下」 「篤志看護婦人会ニ於ケル内外貴婦人ノ繃帯調製」 「篤志看護婦人会ニ於ケル貴婦人戦傷病者の手術介補」 と題された、第三回戦役紀念の「赤十字事業ノ部」に該当する3葉です。

 篤志看護婦人会というのは、後の日赤奉仕団です。日本赤十字社新潟県支部のHPには 「赤十字の奉仕団の始まりは、明治20年に創設された篤志看護婦人会です。篤志看護婦人会は、皇族、華族、上流婦人を中心として、赤十字の事業に奉仕するた に創設され、その最初の活動は、傷病者の介抱ができるように包帯の巻き方や救急法などを自ら習い、赤十字活動の中心となる救護看護婦の役目を果たそうというものでした。」 と説明されています。

 少し前後しますが、「明治事物起原」(以下「起原」)では明治18年8月の「女学新誌」からの引用として、有志共立病院(後の東京慈恵会医科大学)内へ看護婦教育所が設けられる予定であり、米国人スクリード氏が教授される学科は薬物学と生理学である、ということが記されており、続いて、 「明治19年2月より開所したる看護婦講習所これにして、本邦看護婦養成の始めなり。」 と述べられています。

 絵葉書の看護婦(師)は従軍看護婦です。従軍看護婦の歴史についても「起原」によりますと、明治19年に陸軍部内にて看護婦の必要が考えられ、 「養成法の設備成り、続いて二十年には、万国赤十字社に加盟して、看護婦養成法はいよいよ盛んになれり。」と、赤十字社看護婦の始まりに触れながら、日清戦争時において、 「明治二十七、八年の役に、赤十字病院にて年来養成したる看護婦を、試みに広島予備病院に使用したり。これ陸軍病院に看護婦を用ひし始めにして...」 との記載があります。

 さらに 「三十四年、北清事件にさいし、博愛丸、弘済丸の二病院船を艤装して救護に従事したりしが、このときよりはじめて看護婦を病院船内に乗り込ましめたり。」 1900年(明治33年)から翌年にかけて起った義和団の乱(北清事変)の際に、はじめて外地に従軍したと、記されています。

 絵葉書の日露戦争の際には従軍看護婦はどのような活動を行っていたのでしょうか。wiki先生から引用させていただきますと、 「日露戦争においては2160名もの日赤看護婦が従軍し、39名の犠牲者を出した。(看護婦長2名、看護婦37名)ただし、日露戦争でも全員が内地勤務で、犠牲者も病死である。1907年靖国神社に合祀された。日露戦争当時、広島で赤十字病院の看護婦になった新島八重の写真が残されている。」 とあります。内地勤務と言えど、日露戦闘という激しい戦いにあたり、女性(看護婦)もまた、激しい戦いを行っていたことが窺えます。

 ちなみにwiki先生では新島八重について言及されていますが、1890年(明治23年)日本赤十字社社員になった彼女は、 「1894年には日赤京都支部が救護員を広島予備病院に派遣するや、新島は看護婦取締を託され、同院第三分院に勤務した。」 「明治27年(1894年)の日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4か月間篤志看護婦として従軍。 40人の看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めた。  ...その後、篤志看護婦人会の看護学修業証を得て看護学校の助教を務め、明治37年(1904年)の日露戦争時には、大阪の陸軍予備病院で2か月間篤志看護婦として従軍し、その功績によって勲六等宝冠章が授与された。」 とのことで、当時の看護婦の歴史とともに歩んでおられたことがわかります。

2016年8月24日 (水)

古絵葉書 逓信省発行日露戦役紀念絵葉書 その弐

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 上から順番に、「戦時ニ於ケル観兵式」 「戦地ニ於ケル陸軍の天長節・大山大将」 「戦地ニ於ケル海軍の天長節・東郷大将」 と題された、第三回戦役紀念の「天長節ノ部」に該当する3葉です。

 天長節というのは天皇誕生日のことを指し(ちなみに皇后の誕生日は「地久節」といったそうです)、明治天皇の誕生日である11月3日(戦争中ということは、1904年(明治37年)11月3日に該当します)を祝う様子が描かれています。

 「明治事物起原」によりますと、天長節観兵式の始めは、明治4年の天長節の際に、陸軍の整列を巡覧され、外国の軍艦により祝砲が発せられたことであると記録されています。 「五年観兵式を行ひ後恒例となす」 とされていますので、翌年以降恒例行事となったようです。

 さらにwiki先生では、戦後は同じ日が国民の祝日「文化の日」となりましたが、これは昭和21年(1946年)の11月3日に日本国憲法が公布されたことに由来し、明治節とは関係なく定められたということになっているそうです。しかし、同時に、必ずしも関係なくはないことも記されています。憲法公布の日を意図的に特定の日に合わせたという内容です。


 さて、この日露戦役紀念絵葉書に関しては、向後恵里子著「逓信省発行日露戦役紀念絵葉書 -その実相と意義-」という論文が非常に詳しいです。知りたいことはほぼ全部知ることができる、という素晴らしい内容になっています。この絵葉書について調べるにあたっては、丸写ししたいぐらいの内容でした^^; 

 論文の内容を参考に蘊蓄を展開させますと...

 1904年(明治37年)6月、逓信省は日露戦役紀念絵葉書の発行を決定しました。その際、 「...一は出征軍隊慰籍の為め之を贈与し、一は一般之を売下け以て内外国人に交戦の実況を知らしむる...」 とされており、実際に半数は兵士や軍部に寄贈し、半数は一般に販売という配分になっていたとのことです。必ずしも国内の一般市民に向けた単なる「紀念」ではなく、戦地における兵士たちへの慰問ともなっていたのです。

 そのような背景の中、発行された絵葉書は、先回もご説明した通り、大変な人気を博しました。その人気の陰にはデザインの方針にも苦心があったということです。特に第三回からは、「有名な図案家の手になつたものは中々に高尚であつて趣味深々であるが俗受けが悪い さればとてあまり色々な道具立てをすると下品になつていけない 要するに俗にあらず雅にあらず小供にも老人にも向くのでなければならぬ...」という方針のもと、万人向けのデザインに方針転換された記録があり、そのような工夫が一大ブームを引き起こす、要因の一つになったのでしょう。

 ともあれ、このような経過を経て、戦役紀念絵葉書は作られていき、人々は熱意をもって受け入れ、絵葉書という新興メディアに市民権を与えていったのでした。

2016年8月22日 (月)

古絵葉書 逓信省発行日露戦役紀念絵葉書 その壱

 1904年(明治37年)の日露戦争開戦に際し、逓信省は紀念絵葉書を発行しています。明治37年9月5日発行の第一回分から、同39年5月6日発行の第五回(実質第八回)分までの47枚の絵葉書です。

 祖父の遺品の中には、そのうちの第三回発行分の幾葉かが残されていました。

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 上から順番に 「連合艦隊ノ主力敵艦隊ニ向フ」 「水雷艇隊ノ敵艦攻撃」 「敵艦攻撃後ニ於ケル水雷艇隊ノ根拠地引揚」 と題された3葉ですが、これは明治38年2月11日発行の第三回戦役紀念のうち、 「海軍ノ部」 とされた3枚1組のものです。祖父の遺したものの中には、同時に発行された 「天長節ノ部」 「赤十字事業ノ部」他 が含まれていましたが、それらは改めてご紹介できたらと思います。

 この日露戦役絵葉書の発行は、絵葉書史の中でも特筆すべき出来事でした。これまでも触れてきた事柄ですが、1900年(明治33年)、郵便法施行に伴い私製葉書の作製が認可されました。これが日本における絵葉書の「正式な」始まりです(「正式な」とした理由は別の機会にご説明できたらと思います)。しかし、すぐに人々に認知されたわけではなく、一部の海外渡航者らを中心に人気があったという程度のものでした。それが後、「絵葉書にないテーマはない」ほど盛況になるまでの、きっかけのひとつが、この日露戦役絵葉書なのです。

 石井研堂著 「明治事物起原」(ちくま学芸文庫版第5巻)には 「明治三十三年十月一日より、私製絵葉書発行許可の逓信省令あり。 ...絵葉書の最も盛んに行われたるは三十七、八年征露の役、在外将卒慰問にこれを使用したるに起こり、好事者の間に絵葉書熱沸騰したりしが、戦役の終局とともにややすたれ...」  「...記念絵葉書熱の旺盛を極めし三十八年十二月頃は、これを買い受けんとする者に、傷者を生じ、市上の価格も、十数円にて取引せらるるに至る。」 と記録されています。いかにこのシリーズ絵葉書に人気が集中したかがわかるのではないでしょうか。

 日露戦争が国民に広く受け入れられていたという背景があり、紀念の絵葉書もまた広く国民に受け入れられていたのでした。これ以後、絵葉書は内外の出来事、風景などをビジュアル面で知るためのメディアとして市民権を得るのでした。


 ちなみに、「記念絵葉書熱の旺盛を極めし三十八年十二月頃」の絵葉書とは、実質第六回発行分の 「満州軍総司令部凱旋紀念」 1枚5銭で明治38年12月7日に発行された1葉であると考えられます。絵柄は、大山総司令官と児玉総参謀長の姿が映されたもので、私も欲しいです(笑)。

 また、「十数円にて取引」とありますが、10円だとしても1葉5銭の200倍になります。現代の52円の葉書が10,400円で売買されているようなものです。

 うむむ。

 転売屋おそるべし。


 (参考 向後恵里子著 「逓信省発行日露戦役紀念絵葉書 -その実相と意義-」)

2016年8月 9日 (火)

古絵葉書 愛国婦人会 その参(銃後の日本大丈夫)

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 歌詞の書かれた絵葉書です。

 銃後家庭強化の歌 「銃後の日本大丈夫」という曲です。全部で4番まであるようですが、私の手元には3番までのものしかありません。うーん、こうなるとコンプリートしたくなるものですねえ。

 この曲に関してネットで調べてみましたら、陸名一雄作詞 橋本国彦作曲 ということがわかり、さらに陸名一雄(りくなかずお)という人についてしらべていますと、国立国会図書館のサイトに「レファレンス協同データベース」というページがありまして、その中で、

「 『昭和の読売新聞』(読売新聞社メディア戦略局デ-タベ-ス部 2002)
  〈陸名一雄〉で検索したところ、生没年ではないが、下記の記事に当時の住所(東京市王子区)が掲載されていた。
  1939(昭和14)年6月2日朝刊6面「愛国婦人会懸賞募集 銃後家庭強化の歌 歌詞当選発表」特選 陸名一雄「銃後の日本大丈夫」 」

 という記述がありました。以上のことからこの歌詞が、愛国婦人会による懸賞募集によって選定されたものであることがわかります。(この記事を図書館で調べるなら、もう少し詳しいことが分かるのかもしれません)

 また、ニコ動でアップされていたのを聞いてみましたが、わかりやすい曲でした。戦時歌謡というのですね、軍歌とは違って。

 

 「銃後の奉仕合戦」のおそらくは一環であったろう懸賞募集による歌詞ですが、戦地への銃後の守りを伝える内容でありながら、同時に内地における女性たちの生活を縛っていく役目を果たしていたのかもしれません。そうであるならば皮肉なことです。

 

 そういえば、旧館の資料に国防婦人会がらみの新聞記事がありました。

 昭和9年の記事ですが、引用しますと、「『…講演に入り近藤少将は、「非常時における婦人の覚悟」と題して、国策遂行に当たっては、婦人の助成なくして国家総動員の働きは望まれない意味を大戦当時の英国の実例によって説明、非常時婦人の覚悟を促し、次いで荒木大将は「日本婦人と国防」の題下に、非常時に慮する婦人のとるべき道は天職の家政のみでは十分でなく、日本精神の保存者として、またその培養者として軍国日本を認識した活動に出なければならぬ旨を力説…』」という内容です。

 一見すると、「軍」が国民を軍国主義に誘導しているかのように思える内容なのですが、愛国婦人会、国防婦人会などの婦人団体の成り立ちを追いかけていきますと、なかなかそのように単純ではなかったようだ。 と、考えさせられます。

 

 世情によって国民が国民を縛る、というのは右だろうと左だろうと、陥りやすいものなのかもしれません。

 やはり偏りすぎた教育ではなく、公平なバランスの取れた教育が大切なのだと考えます。そうでないなら人は簡単にネトウヨやパヨクに流されていくように思えるのです。

 

 おいおい、偉そうに言っているけれど、自分のことは大丈夫なんだろうな、と自問も忘れないようにしなければ...

2016年8月 8日 (月)

古絵葉書 愛国婦人会 その弐

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 夏はどうしても戦争について考えてしまう季節であります。私だけかもしれませんが、どの季節でも戦争は行われていたはずですのに、なぜか「戦争=夏」というイメージが強いのです。理由を考えてみますと、おそらくは小中学校での反戦教育にあるのではないかと思うのですが...

 反戦教育が悪いわけではありません。ただあまりにも偏りすぎた教育は、右だろうと左だろうとロクなことにはならないような気がするのです。

 

 ところで絵葉書です。

 愛国婦人会について調べようと図書館へ行ってみましたが、それほど資料が充実しているわけではありませんでした。しかし、加納実紀代さんという方の著された「女たちの〈銃後〉」という書籍を借りてくることができました。

 私のような者が生意気なことを言いますが、加納実紀代さんの史観には、必ずしも同意できない部分も感じました。 が、銃後における女性の置かれた立場について、特に愛国婦人会と国防婦人会との関係については非常に勉強になりました。

 一部、引用させていただきますと

 「...たんに、愛婦、国婦という婦人団体の勢力争いの問題ではなく、日本の社会全体における支配構造の変化をも示している。愛婦対国婦の争いは、いわば、日本の既成勢力対新興勢力の代理戦争であった。36年(1936年)をさかいに国婦が愛婦を凌駕していくのは、日本の支配構造の中心が、資本家や地主、その上にのっかった政党、官僚といった既成勢力から、<革新>勢力としての軍へ、大きく移行したことを示している。つまり、いわゆる軍国主義体制へ、ほぼ大勢が決したということだ。」

 というくだりは、眼が開かれるものがありました。もちろん異論はあるかもしれませんが、国民が軍国主義体制を支持したということの意味や背景をもっと勉強しなくてはならないなと、考えることができました。

 

 書籍を読んでから絵葉書を見てみますと、少し見方が変わりました。

 愛国婦人会は、もともと、ある意味、上から目線の活動をおこなっていました。それが、国民に迎合していく様を、感じるのです。

 

 ...なんかとっても拙い感想文になってしまったなあ。

2016年8月 7日 (日)

古絵葉書 愛国婦人会 その壱

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 愛国婦人会が発行した戦地慰問用の絵葉書で、いずれも農村向けの内容となっています。

 表面の「きがは便郵」表記から、1933年(昭和8年)以降のもので1942年(昭和17年)までに発行されたものと考えられます。

 

 愛国婦人会とは、コトバンクでは「1901年(明治34年)2月4日奥村五百子(おくむらいおこ)らによって創設された婦人団体。華族夫人が中心になり,兵士,その家族の救援活動を行なった。最盛期の会員数 300万人以上。 1942年(昭和17年)大日本婦人会に統合された」 と、簡潔に記されています。

 この記述からも分かるように、もともとは上流婦人階級による慈善活動的な軍人援護団体であった愛国婦人会(愛婦)は、その会員であることが一つのステータスシンボルになっていた反面、「有産階級の金出し団体」「名流夫人の衣裳くらべの場」といった批判もつきまとっていました。

 これに対して、「国防は台所から」とスローガンを掲げる国防婦人会(国婦)が、1932年(昭和7年)に発足し、愛婦との軋轢が生じるようになるのですが、国婦は、一般主婦層のみならず紡績女工や遊郭の女たちの間にも浸透していき、あっという間に(1936年頃には)愛婦を会員数において凌駕してしまったのでした。

 このような経過の中、愛婦は1934年あたりからそれまでのお上品なやり方を改め、組織防衛、新会員獲得になりふり構わずのり出していき、それは国婦との「銃後の奉仕合戦」に発展していきます。すなわち、お金を出す社会事業から、労力奉仕的なものへの変化です。

 

 絵葉書の「銃後の労働奉仕」を強調する内容には、どうやらそのような背景があるようです。

 (参考 加納実紀代著「女たちの〈銃後〉」)

 

2016年8月 1日 (月)

古絵葉書 利鎌の光(とがまのひかり)

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 「利鎌の光」は発表年はわかりませんでしたが、相馬御風(そうま ぎょふう)作詞、中山晋平(なかやま しんぺい)作曲の銃後の農村を歌った曲です。(記載されている歌詞は2番になります)

 ネットで聴くことのできる曲調自体は決して陰鬱なものではありませんが、絵葉書の絵柄からはどことなく陰鬱なものを感じます。おそらく中央の女性が俯いていることに原因がありそうです。

 撮影したのは近藤福雄(こんどう とみお)という方で、調べてみますと、主に佐渡で活躍された写真家のようです。もしかすると絵葉書の絵柄も佐渡が舞台なのかもしれません。

 俯いた女性という被写体に意図があったのかどうかはわかりません。

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 表面を見ますと、この絵葉書が昭和14年の年賀状に使われたことが分かります。当時は「年賀状」そのものは当局の指示で自粛されていた時期ですが、新年のあいさつに「聖戦二年の春を迎え、更に教育報国の誠を生きん覚悟にござ候」の言葉が重いです。

 

 余談ですが、作詞をされた相馬御風という方は早稲田大学の校歌や、童謡「春よ来い」の作詞などで有名な方です。また作曲の中山晋平という方は「シャボン玉」「てるてる坊主」など数多くの童謡を作曲された方で、こちらも有名な方です。(わたしは調べるまで知りませんでしたけれど...)

2013年11月21日 (木)

【閲覧注意】古絵葉書 格納庫南方ニ於ケル・・・

 グロいのは決して好きではないのですが、戦争っていうのは勇ましいばかりではないっていうことを確認しておきたいので、昨日に続いてシベリア出兵時の絵葉書をさらに2枚ご紹介します。(昨日よりグロいので気をつけてください)

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 「格納庫南方ニ於ケル敵ノ死体」


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 「アムル河岸ノ惨骸」(少し読み取りにくいので間違っているかもしれません)


 ウィキ先生にはシベリア出兵の総括としての言葉が国防史(昭和16年)からの引用として記載されています。

 『シベリア出兵は我が国防史における暗黒のページである。駐兵4ヵ年、戦費9億円、軍司令官を代えうること3回、その間戦争目的を変更すること3回、領土は 問題外であるが、勢力圏的にも殆ど得るところなく、而して忠勇なる将兵は、シベリアの荒野にいわゆる過激派なるものと戦い、しかも兵力不足、戦略不徹底の ために、尼港虐殺事件、田中大隊全滅、大川大隊全滅の惨事を惹起し、外に我が野心を猜疑され、内に国民の不満懐疑を累さね、遂に一物を得ずして撤兵したる、悲しむべき大事件である。』

 ...絵葉書は「ないものはない」というぐらいいろいろなテーマが取り上げられています。しかし、流石にここまでリアルなものが作製されるというのは本当に需要があったのかどうか... しかし、だからこそ当時の風景としての様々な息遣いを感じることができるわけです。(実際のところわたしは学校でシベリア出兵を詳しく教えてもらうことはありませんでした)


 これからも、あえて見ないふりをせずに、入手可能なものは入手していこうと思っています。



 P.S.
 それにしても... もう一度言うけど、こんな絵葉書、需要があったんだろうか? 国威発揚につながるんかね? 単に野次馬根性を満足させるためではないのだろうか? などなどいろいろと考えてみるのでした。

より以前の記事一覧