古絵葉書 ミナミの大火 その3
「大火焼失略図」(上左)、「南区陳列所の残骸」(上右)、「電気館焼跡」(下) の3葉です。
1912年(明治45年)1月16日の未明、南区難波新地4番町の貸座敷「遊楽館」からの出火が原因の 「南の大火」 ですが、この「遊楽館」とはどこにあったのだろうかと疑問でした。ネットやその他資料に当たっても、なかなか「現在地はここ」という一文に出会えません。
今回、「大火焼失略図」を入手し、「火元」と書かれた部分を見て、よしこれでわかるぞと思ったのでした。なお、南の大火の焼失区域については、別の資料から地図を見ることもできますが、なかなか一定していません。(この略図とも範囲が微妙に違うのです。火元あたりも一致しません)
しかし、せっかく手に入れた絵葉書です。今回はこれを信じてこの「火元」へ行ってみたいと思いました。すなわち「新戎橋筋」です。
明治26年3月に架橋された新戎橋は、よく知られた「戎橋」よりも御堂筋を挟んだ西側にあり、橋長が130尺(39.4m)、幅員20尺(6.1m)の木橋でありました。ここから5つ目の「通り」付近が「火元」となっています。現代の地図で当てはめてみますと、概ね「近鉄難波ビル」付近となるでしょうか。しかし、焼跡を整備して敷設された「千日前通り」は、火除け地としての機能も持たされており、当時としてはかなり広い道路、一区画分丸々の道路幅であったことを考えると、どうやら「遊楽館」は千日前通りの一角と考えるほうが自然かもしれません。考えてみれば火元は起点です。西からの風にあおられ北西に燃え広がっていったわけですから、南の方角は焼け残っているはずです。焼け残った場所をわざわざ整地して道路にするのは、ちょっと無理があるような気がします。(この場所は「新地」であり、遊郭であったことを考えるとなおさらです)
というわけで...

新戎橋筋沿いの千日前通りの一角である、この写真の場所(道路上)が「遊楽館」ではないかと思うのですが如何でしょうか。(右端の建物は近鉄難波ビルです)
勿論、当時の住所地と現在の住所地を比較しながら調べることもできるかもしれませんが、残念ながら気力がありません^^;
また、火元に関しては既に特定されていて、「そんなとこじゃねえよ」となるのかもしれません。もし正確なことをご存知の方がいらっしゃれば、ご教示ください。お願いいたします。(なんか「北の大火」に比べて力の入れ具合が違うと自分でも思います)
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南の大火については(北の大火も含めてですが)、本館で画像をまとめています。もしよろしければ、本館にもお越しください。








