キタの大火

2020年7月19日 (日)

古絵葉書 キタの大火 その拾弐

 直近の寸葉会で「北の大火」の良い一枚を入手することができました。

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 土佐堀川を挟んだ中之島の南対岸、北浜から撮影したものです。使用済み(エンタイアと言います)の表面には1銭5厘の切手の上に「大阪 42.8.4」の消印があります。
 大火直後に使用されたもので、静岡県内の宛先へ写真の解説と大火の状況を伝えているという個人的には「大変に美味しい」逸品です。

 内容はと言うと(頑張って読める範囲ですが)、絵柄に印を付けた建物、「※北警察署」は灰になってしまい、「×控訴院」も外側の煉瓦を残して焼けてしまったことを伝えています。なお、「△」は大阪ホテルだとも伝えています。

 この位置から撮影した大火の状況は初めてで、中之島中央に写る豊国神社の佇まいがよく把握できました。また中之島北岸に大勢の人々が群がり堂島川を挟んだ対岸(控訴院等)を見ているさまも見て取れます(北警察署の写っているあたり)。場面の時間帯としては7/31の午後5時から6時あたりだと思われますが、夏なのでまだ明るくよく写っています。
 とても嬉しい一枚です。

 さて、この付近の当時の地図を参考に挙げてみたいと思います。地図は日文研さんのデータベースから引用させていただきました。いつもありがとうございます。
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 左が1900(明治33)年の地図で、右が1923(大正12)年の地図です。本題から外れますが、23年間でずいぶんと様変わりしていることがわかります。
 豊国神社を中心に見てみますと、西隣にあった中之島公園内に大阪府立図書館が建ち(1904(明治37)年)、次いで豊国神社のあった場所に中央公会堂が建ち(1918(大正7)年)、豊国神社はそれに先立ち大阪府立図書館の東隣に遷座し(1912(大正元)年)、1921(大正10)年には遷座後の豊国神社東隣に大阪市庁舎が建ちました。また、堂島川対岸の控訴院は1916(大正5)年に3代目庁舎として再建されています。また、北警察署もいつの間にやら天満警察署として復活しています(このくだりはざっくり調べましたがよくわかりませんでした)。そうそう、控訴院東の蜆川(曽根崎川)もなくなっています(1912(明治45)年 ※上流側)。公会堂の前に架かっている栴檀木橋(せんだんのきばし)は1914(大正3)年に再架橋されたもので、1885(明治18)年の洪水で流されていたそうです。
 この時期を含む昭和初期に至るまでの大阪市内の変化は本当に目まぐるしいものです。


 さて余談です。
 古絵葉書のマニア(入口あたりの素人に毛の生えたようなものですが)ではありますが、葉書(郵便)全般に対してのマニアではなくその方面の知識はないのですが、それでも門前の小僧よろしく多少の知識が入ってきますと、いろいろ興味が出てきて調べてしまいます。そうすると一言記しておきたくなるのが私の良くない「知ったかぶり」癖で、つまりは消印(日付印)についてです。(もちろん資料からの引用であり、「そら」で覚えているわけではありません)

 今回の絵葉書ですが、切手の上に押してあるものは櫛型印(上段と下段に櫛型の模様が付いている)と呼ばれる形で1906(明治39)年から主だった局で使われるようになったそうです。それに対して、宛先付近に受領した局(という表現で良いのかな)の消印(日付印)が押されています。丸一印という形式で全国の郵便局において1909(明治42)年12月末まで使用されていたものだそうです。「駿河興津局」のもので8/5の8便で受け取ったようですが、主要幹線沿いならば思いのほか早く届くのですね、少し意外でした。

 このような消印の形からも絵葉書の年代推定には役立つという事を言いたいわけで(日付が潰れているものが結構多いのです)、「知ったかぶり」をしたいだけではないのです(たぶん)。

 それにしても「嬉しい」一枚でした。

 ※「北の大火を調べる-おとらのしっぽ-」もご覧ください。


(参考)
Wikipedia(豊国神社、大阪市中央公会堂、栴檀木橋)
「郵政博物館の日付印類」近辻喜一著 郵政博物館HP(ホーム>刊行物>研究紀要>郵政博物館研究紀要第11号
「日本切手百科事典」日本郵趣協会(1974年)刊
地図類 国際日本文化研究センターHP

2020年2月24日 (月)

北の大火 特設サイト公開

 昨年末から頑張っていましたが、なんとか形になりました。
 私の蒐集した「北の大火」に関する情報の集大成です。じつは「雑記」とした部分の記事はまだまだ未完成で、いくつか掲載したい内容が残っていますが、とりあえずOPENにしたいと思いました。

 いや、毎日思っていたのですよ。今日事故で死んだら心残りだなあと。

 WiXで作ったのですが、いや、なんか大変でした。細かな自由度がないのですね。ただ簡単に作れると言えば作れますので良かったかなとは思います。(無料のプランで作りました)
 WordPressで作るのも良いとあったのですが、なんか難しそうなのと、まずは無料でと考えたので(なんかドメインをとって月額や年額を払い続けるプランだと死んだらサイトがなくなるのかなあと思っちゃったのですよ)比較的簡単そうなWiXにしました。まあ、それなりに大変でしたけど(何度も言います)。

 そのうち「おとらのしっぽ」本館も移転しようかと思います。そっちは有料プランにしようかなあ... 独自ドメインってカッコ良いし。

 いずれにしろ北の大火の特設サイト「北の大火を調べる」、本日2/24、公開しました。


 読んでほしいなあ。


(2020.06.02 追記)
 「北の大火を調べる」を独自ドメインにしました。こつこつ貯めていたお小遣いを(月になんと1,000円貯金)放出しました。
 2年後の更新までにまたこつこつ貯めないと^^;

2019年7月31日 (水)

キタの大火 その拾壱(火元玉田庄太郎に関する考証)

※お断り
 登場人物についてはすべて実名で記載しております。これは100年以上前の出来事であることと、当時の資料において実名で記録されており、かつ現代においてそれら資料が一般に公開されていることによります。


 梅雨は明けても台風のおかげでいまひとつ夏らしくなかった近畿地方ですが、ここ数日でようやく夏らしくなりました。すなわち「暑い」ということです。なんにもする気にならないのです。


 さて、明治42年7月下旬の大阪も炎天下が続き乾燥しきっていました。人々は汗を拭きつつ日常を過ごしていたものと思われます。(エアコンなんかなかったですからねえ)
 そのような中、数日続いた徹夜仕事もひと段落ついた7月30日宵の口、大阪市北区空心町二丁目七十番地のメリヤス製造業者、玉田庄太郎は仕事を切り上げました。数え年32歳の庄太郎は、妻(千代 24歳)と娘(文子 4歳)、そして母(りき 61歳)との4人暮らしで、住み込みの従業員2名(木本辰蔵 18歳、丸橋善兵衛 18歳)と共に順調に商売を続けていたようです。

 その日、午後九時頃には従業員2名が二階の部屋へ向かい、午後十時頃に庄太郎と千代が文子と共に奥の座敷で休みました。母のりきは火の始末をしたのち離れの二階へ向かい、ふと、従業員2名のいる方を見るとすでに眠っているらしく明かりは消えていました。

 おりしも東からの風が強い日でした。

 中庭に消し忘れたランプがひとつ、ゆらゆらと揺れていました。


 7月31日(土)、バチバチという音で目が覚めたのは庄太郎でした。彼には時間はわかりませんでしたが午前四時過ぎであったようです。彼の目に飛び込んできたのは台所から店にかけてが一面火の海になっている光景でした。
 「火事じゃ!」
 大声で叫び裏口から妻子と共に脱出した庄太郎でしたが、母親が取り残されていることに気付き炎の中に取って返し救出しています。なお従業員二名も「火事じゃ!」の声に目が覚め一階に降りると既に火の海となっていたのですが、こちらも裏口から脱出に成功しています。

 その後、妻と娘を妻の実家である東区常磐町一丁目に、母を北区南同心町の同業者の家へとそれぞれ預け、ふらふらと火元に戻ったところを捜査中の刑事に保護され回生病院へ収容されますが、そこも火の手が回り中之島の大阪ホテルへ避難した後、東区の偕行社に改めて保護されます。そして8月1日、中之島公会堂に設置された北署仮事務所へ自ら出頭し取り調べを受けることになりました。なお、大阪毎日新聞8/1の紙面では「火元の主人発狂」と小見出しをつけられていますが、確かに茫然としてはいたかもしれませんが意識はしっかりしていたようです。
 今も昔も書かれている記事はよくよく吟味しなくてはなりません。
 
 8月12日、取り調べが始まりました。検事の質問に対し、庄太郎は素直に 「母によるランプの消し忘れの可能性がある」「中庭のランプが原因と思われる」 旨の陳述を行い、検事は失火罪として起訴する手続きに入りました。

 8月20日午前十時、大阪区裁判所での公判が始まります。

 しかし...
 
 ここで玉田庄太郎はとんでもないことを言い出したのでした。

 曰く 「自分は回生病院に入院した時点で、新聞記事により初めて自分が火元扱いにされていることに気が付いた。自分が火元かどうかはわからない」「ランプは確かに消した。火元であるはずがない」「どこからかのもらい火か、または隣家の路地からの放火だ。いや盗賊のせいかもしれない、そっちを調べてくれ」

 ...と、逆上しながら言ったのです。

 傍聴人は大騒ぎ、検事大激怒。(そりゃそうだ)  初公判は一時間ほどで閉廷したのでした。


 そうなると始まる世間のバッシングは今も昔も変わりません。検事宛ての匿名の投書には 「十時ごろ寝たと言っているが嘘だ、零時過ぎまで起きていたのを知っている。また、あいつは日ごろから評判が悪い、しっかり調べてください」 というものや、玉田家焼跡には 「火元はここなり」 と書かれた看板が立ち、また、避難先の妻の実家にも昼夜かまわず戸が叩かれ 「放火してやろうか!」 と罵りの声が多数あり、さらに公判の少し前の出来事ですが、焼け跡から指輪を探すように妻から言付かった従業員二名が現地で袋叩き(ちょっと大げさですが)にあっています。

 いやいや危機管理の完全な失敗例であり、それに対する世間の反応。百年経っても人は全然進歩していないことがよくわかります。



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 (赤丸が玉田庄太郎の家になります)      (現在は大阪市立扇町総合高等学校付近となっています)

 さて、玉田庄太郎の言い訳のなかで 「隣家の路地からの放火」 がありました。それは北隣の浅利弘太郎(あさりひろたろう)の家を指します。つまり暗に浅利の放火であると言っているのです。
 二人の日ごろからの人間関係はわかりません。とっさに出た言い逃れがたまたま浅利に向けられただけかもしれません。また、この時点で行方不明扱いであった浅利は焼け死んでいる、と考え罪を押し付けようとしたのかもしれません。
 いずれにしても浅利にすれば迷惑この上ない話です。

 8月24日午前、浅利弘太郎は裁判所へ出頭し、いつでも召喚に応じる旨を伝えます。

 8月31日、第二回公判が始まります。検事側は証人として北隣人の浅利弘太郎、および玉田従業員木本辰蔵を証人としました。

 結果、判事は庄太郎に対し 「二人の証言からあなたの言い分はまったく根拠がない!」 と詰問します。
 さらに、焼失戸数一万一千三百六十五戸、損害金額千五百六十八万三千八百十一円を計上した池上警察部長の被害取調書、死傷者数などの朗読を経て、流石の庄太郎もついにはうなだれます。

 そしてさらに検事がダメ出しの一発を浴びせます。
 「そもそも警察署での取り調べではランプの消し忘れを認めておきながら、公判においてそれを否定したが、しかし証人らの証言からランプの消し忘れは明白である。
 だいたいメリヤスを扱う人間として火の始末は最も注意を払うべき事柄ではないか。それを年老いた母親に丸投げし、多くの人々を火災に巻き込んだ。しかもそれを反省もせず人々に済まないとも思わず、まさに言語道断、できる限りの極刑が相応しく刑法第116条にてらして罰金三百円が妥当である」 と言い切ります。
 激怒感が伝わってきます。ちなみに当時の三百円を現代にあてはめると、消費者物価指数による幣価値換算では105万円程度、また白米換算で120万円程度になります。まあ、失火罪ですからね、そんなものでしょう。しかし明治の司法も情に流されることなく法にしっかりと従う(求刑)ところは流石ですね。

 で、9月4日、大阪区裁判所で判決が下ります。
 「被告庄太郎を罰金三百円に処す。但し、罰金完納すること能わざる時は二百日間労役場に留置す」
 (ちなみに現行の刑法は明治40年に成立したそうです(旧刑法で116条を検索したら大逆罪なんか出てきて驚いてしまいました)。また、民法には失火責任法なるものもあって、重過失でない限り損害賠償の責任を負うことはないそうです。庄太郎のケースは重過失だと思うのですが、当時の判断では結果、どうなったのでしょうかねえ)

 その後の庄太郎についてはわかりません。また、調べる気もありません。
 重大な過失とはいえ「過失」です。「故意」ではありません。また、言い逃れは酷いものだったとはいえ、鎮火後、日を追って伝わる被害の大きさから現実逃避したくなる気持ちもわからなくはないのです。

 夢なら醒めろ、と何度も思ったことでしょう。

 

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 (当時の風速について大阪市北区役所が測候所に尋ねた回答です)

 

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(火元付近の絵葉書ですが、後世にまで「玉田」の文字が残ります)



 このように北の大火の主人公、玉田庄太郎は罰を受けました。

 しかし...



 玉田庄太郎の避難先、妻の実家があった東区常磐町一丁目、ここからわずか二ブロック南に、北の大火のもう一人の主人公が暮らしていたのです。

 深い闇を抱えながら...


(参考)
大阪市大火救護誌(明治43年 大阪市)
大阪毎日新聞 M42.08.01 M42.08.13 M42.09.01
東京朝日新聞 M42.08.24 M42.08.25
土地台帳明治44年(国会図書館)
明治四十二年八月北区大火災に関する書類(大阪市公文書館)


2018年7月29日 (日)

古絵葉書 キタの大火 その拾 (キタの大火を歩く 後編)

 さて、北新地を舐めつくした火の手は福島方面へ向かいます。

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 出入り橋のあたり、現在はNTTの建物がある場所にはかつて旧制大阪高等商業学校がありました。
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 住吉区杉本町にある大阪市立大学の前身にあたる学校でしたがこれも7月31日の午後十時半頃、灰燼に帰しました。
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 現在ではそのような災害があったことなど微塵も感じさせない佇まいです。
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 さらに西に進みます。

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 日が変わった8月1日午前零時二十五分、福島三天神のひとつ、上の天神が焼けおちます。現在は福島天満宮として再建されているこのお社は、こじんまりとした落ち着いたお社ですが当時はもう少しなにわ筋よりにあったそうです。

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 掲げられている社記にも「明治四十二年七月北区大火に類火炎上して一木をも残さず」と書かれていました。確かに絵葉書を見れば誇張ではないことがわかります。

 この上の天神から少し北に、かつて「五百羅漢」として観光対象にもなっていたお寺、妙徳寺がありましたが、ここも焼けています。
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 この場所に関しては国道二号線沿いに案内板が出ています。
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 逆光で見にくいのですが北の方角へ50mの距離です。  ...しかし!

 そっちへ行っても何にもないのです! 立て看板一つありません。

 ま、事前に調べてわかってはいたのですがね。その場所が現在の福島公園にあたるということは。

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 幾人かの幼女が遊んでいましたが、なんとか写らないように撮影しました。通報されたらどうしよう、と、わりと本気で気にしていました(笑)。
 しかし、公園をぐるっと一周しましたが、本当に何の案内もありません。遺構がないのは良いのです。ただ国道に案内出すんなら現地に「〇〇跡」くらいの案内も出そうよ、と思うのですが如何でしょうか。
 ちなみに妙徳寺はその後東大阪へ移転しています。残念ながら五百羅漢は... もうありません。

 やがて大火は最終局面を迎えます。
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 当時、通称「焼止」と呼ばれたあたりです。現在の福島区福島3丁目から4丁目付近になります。

 当時このあたりには日本紡績・福島紡績の二社の工場がありました。これら紡績工場のレンガ塀に阻まれて(もちろん集中的な消火活動も功を奏しました)さしもの大火も鎮火したのでした。8月1日午前6時30分と記録されています。発生からまる1昼夜、約26時間にわたる大火災でした。(火災広報(大阪府警察部より内務大臣に向け報告された内容)では午前4時鎮火となっています)

 この焼止のレンガ塀がどこのものかは その捌 で述べてみましたが、当時の遺構、というよりも紡績会社の遺構というべきものが現在の下福島公園に残っています。
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 まったくどこにでも下手糞な落書きをする輩はいるものです。
 これらのレンガ塀が直接火を遮った塀ではないでしょうが、それでも当時の気配を感じることはできそうです(落書きを除いて)。そしてこの塀の前で疲労困憊へろへろになりながら消火に携わった人たちのことも忘れてはなりません。

 火元から鎮火場所までてくてくと結構歩きました。途中で京阪電車のお世話にもなりましたが、しかし6月(2017年)とはいえ夏にするものではないですね。暑かったですしメタボのおじさんにはきつかったです。情けない。
 でもなんとか1年遅れではありましたが、7月31日に間に合わせて記事をupすることが出来ました。良かった良かった。
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(参考)
 「大阪市大火救護誌」 明治43年 大阪市
 「大阪大火画報」明治42年 有楽社
 「新修大阪市史」平成6年 大阪市
 「大阪市新地圖 : 改正新町名入」明治33年  国際日本文化研究センター所蔵

2018年5月30日 (水)

古絵葉書 キタの大火 その玖 (キタの大火を歩く 前編)

 「北の大火」についてはいつの間にかライフワークのようなものになっておりまして、以前から書いてみたい記事として構想を持っていたのが、「 「北の大火」を歩く 」 というものでした。
 で、実は去年の7月31日(大火の発生した日)にあわせて記事を書きかけておりまして、現地取材も去年の春から夏にかけて行っておりました。

 でも結局、upは今頃になってしまいました。

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 火元は北区天満の空心町2丁目70番地メリヤス製造工場からでした。出火原因は火の始末を年老いた母親にまかせっきりにしたことにより、消し忘れた火がランプの油壷に落ちたことにはじまったものです。時に明治42年7月31日午前4時20分のことでした。

 大正3年の地図を引用させていただきます。
(日文研)

 「大火救護誌」によりますと、出火後 「毒焔直に走って近接の松ヶ枝尋常小学校を舐む」 とあります。
 地図にある松枝小学校と真向かいにある専念寺を手掛かりにしてみますと、この専念寺は現在でもこの場所にあり、つまりその向かいの現扇町総合高等学校に松枝小学校があったことになります。
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 近接する場所が、火元のメリヤス工場というわけですので、「大阪大火画報」の地図などを参考に天満橋筋沿いの一角を勝手に決めてみました。
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 この駐車場のあたりでどうでしょうか。奥の建物は扇町総合高校です。

 余談になりますが、8月2日付の新聞では、出火元の主人は火災後、子供が行方不明になったと錯乱状態になり、火の中へ飛び込もうとするところを抑えられ、近隣の回生病院へ収容されます。鎮静したところを病院より北署へ通報されますが、北署も火災でてんやわんやであったため放置されていましたところ、やがて火が病院にも迫り、避難を余儀なくされましたがそのどさくさで行方不明となったとのことです。
 しかし、翌日の新聞では、発火を確認したのち、妻と4歳の長女、年老いた母親の3人を救出したのち、茫然として火事場付近をさまよっていたところを北署刑事に発見されましたが、気が動転し失神もしたりしたようで、落ち着かせるため回生病院に預けられ、翌8月1日、中之島公会堂の北署仮庁舎へ出頭し事情聴取を受けています。その後、東区の妻の実家へ避難したようです。

 なんか、えらく内容が違う^^; 混乱のさなかでの取材は大変なのですね。

 いずれ、この火元の主人については集中的に記事にしようと思っています。いや、いろいろとしでかしているのですよ、彼は。

 最終的に主人の失火と認められ、罰金三百円(払えないときは二百日の労役)という判決を明治42年9月に受けています。

 
 
 話を戻します。
 出火後、強い東風に乗った火災は、第一防火線の堀川筋を突破した後、西へ南へと燃え広がります。

 南の方へ広がった火は衰えることなくその強さを増し、午後5時頃、控訴院へ襲い掛かります。

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 堂島川をはさんで、阪神高速高架橋の向こう側にある建物が大阪高等・地方・簡易裁判所合同庁舎であり、昔の控訴院です。中之島公園から撮影しましたが、川幅がずいぶんと狭くなったように思えます。

 大阪控訴院は午後七時から八時にかけて全焼しています。

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 そしてほぼ同じころ、控訴院よりやや西にある大江橋も半焼してしまいました。
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 現在の大江橋は、大動脈御堂筋を担う主要な橋梁として、昭和10年に架けられました。

 さて、堀川筋を突破して西の方角へ向かった火勢はどうなったでしょうか。
 午後5時頃には梅田新道へ到達しようとしておりましたが、ほどなく梅田新道を突破し、いわゆる北新地を飲み込んでいきます。

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 その当時、この場所には遊郭があり、また曽根崎川、別名、蜆川と呼ばれる川がありました。
 火勢が新地に迫り始めたころ、娼妓たちは大慌てで避難を開始し始め、荷物を含めて曽根崎川(蜆川)を舟で下ろうとします。結果、川には舟があふれます。

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 火の手は川を飲み込み、北新地は文字どおり灰燼に帰します。

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 現在の北新地には、旧曽根崎川を中心として、いくつかの碑が残されています。

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 史跡蜆川跡としてのしじみ橋の名残です。御堂筋沿いにひっそりと残っています。ちなみにこのしじみ橋は、文久3(1863)年6月、壬生浪士組(のちの新選組)の芹沢鴨らと相撲力士たちが睨みあった歴史の一コマの舞台です。

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 曽根崎川に架かっていた桜橋を偲ぶ碑が、今日の桜橋交差点近くの一角に地味に建っています。


 さて、火勢はいよいよ福島に向かっていきます。

 後編へ続く。

2017年6月25日 (日)

古絵葉書 キタの大火 その捌

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 「上福島日紡付近焼止ノ惨状」 と題された一葉です。

 北の大火は明治42(1909)年7月31日午前4時20分、北区天満の空心町2丁目70番地のメリヤス工場から出火し、翌8月1日午前4時、福島あたりでようやく鎮火したという大火事ですが、その鎮火場所、 「焼止」 のあたりを写した絵葉書です。

 「日紡付近」とキャプションされていますが、この付近には「日本紡績」と「福島紡績」という二つの紡績工場がありました。
 国際日本文化研究センターで公開されている当時の地図を引用させていただきます。
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 一次資料というべき当時の大阪朝日新聞によれば 「・・・日本紡績の寄宿舎のみを舐めて西野田の境なる田圃に至りてついに鎮火したり」(8月2日付) と記載されています。また大火の翌年に纏められた 「大阪市大火救護誌」 では 「福島中の天神の石垣より日本紡績株式会社の高塀に至って、・・・さしもの大火災もここにようやく鎮滅するに至りしなり」 と、同様に日本紡績の名をあげています。
 しかし明治42年8月20日(大火の直後)に発行された 「大阪大火画報」 に掲載されている地図によると、福島紡績が大火の西端にあたるように描かれており 「新修大阪市史(平成6(1994)年刊行)」 では、この「大阪大火画報」を根拠に、福島紡績の外柵を鎮火場所としています。さらに先に述べた 「大阪市大火救護誌」 の 「福島中の天神の石垣より日本紡績株式会社の高塀に至って」 の記述ですが、上に掲げた地図をよく見てみますと、福島紡績に隣接して 「天神」 とあります。中之天神はこの場所に当たりますので、やはり焼止まりは福島紡績とするのが妥当なのかもしれません。

 さて、

 大阪朝日新聞(8月3日付)に記載されているエピソードをご紹介したいと思います。

 出入橋の第三防火線も突破された後、31日午後11時頃、福島紡績および日本紡績のレンガ塀内あたりから「熱い」「助けて」という異様な叫び声が聞こえました。火の手を先んじて住民の避難にあたっていた警察官らが手分けして両社の門前に駆け付けると、門が固く閉ざされ会社の役員が陣取っています。門を開けようとしないわけです。そうこうするうちに火の粉が舞い散り始め、中から「助けて助けて」という声が一層響くにあたり、警察官らは強引に門内に飛び込み、なおもしぶる役員たちに対し 「何をぐずぐず考えておる。数千の工女をかかる非常の場合に、散逸をおそるるのみにて自由の外出を許さず、立て籠めおくとは何事ぞ、今に焼き殺されてしまうではないか!」 と怒鳴りつけ、ようやく門のかんぬきをはずし工女たちを脱出させたという話です。
 記事では 「両社が工女の外出を禁じたるは、逃亡、誘拐、散逸等をおそれての所為なるが」 と分析していますが、「誘拐」の文字が気になりました。そこで当時の紡績業における女工たちの待遇について調べてみますとおもしろいことがわかります。

 一般に、映画の「あゝ野麦峠」などでもそうなのですが、紡績業の女工たちは悲惨であったと強調されています。しかし実際は(確かにきつい仕事ではありましたが)、農家の仕事に比べると、工場で働くほうが労働は軽いうえ賃銭も高いので農家では雇人が欠乏したほど、女工の人気は高かったようです。

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2019.11.10追記
 当時の女工の労働環境については「あゝ野麦峠」の世界を否定しているつもりはありません。事実大阪市内においても当時の新聞記事では「脱走女工」について書かれているものは少なくありません。ただ、「悲惨」ばかりではなく女工の成り立ちと、都市部での紡績工場でのそこで働く女工たちの実態にも理解を深めたいと思うのです。
(追記ここまで)
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 明治22年あたりまでは工場の周辺部で女工を募集することができたようですが、人手が足りなくなり、明治23年あたりから地方へ募集をかけ、工場には寄宿舎を設けることが一般的になっていたようです。地方からの労働力は、容易に実家に帰ることができませんので年季奉公させる側にとっては有利な点もあったのですが、しかし、お金優先の彼女たちですので、給金の良い工場から誘いがあればふらふらと行ってしまうということも少なくなかったようです。また明治23年あたりからは労働力の不足が深刻化してきたことから、人材確保のために、他の工場の女工を誘拐するといったことも行われていたようです。熟練工を容易に確保する方法ですな。

 そんなこんなの背景があって、寄宿舎からは簡単に外出させないという風潮になり、それが大火にあっても避難させることを渋ることにつながったのではないでしょうか。


(参考)

 「大阪市大火救護誌」 明治43年 大阪市
 「大阪大火画報」明治42年 有楽社
 「新修大阪市史」平成6年 大阪市
 「明治期紡績業における通勤女工から寄宿女工への転換」 千本暁子著
 「大阪朝日新聞」明治42年8月2日および3日付
 「大阪市新地圖 : 改正新町名入」明治33年  国際日本文化研究センター所蔵

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2017年1月 1日 (日)

古絵葉書 キタの大火 その漆

 新年あけましておめでとうございます。
 今年はどんな一年になるのでしょうか。できるなら穏やかに暮らしていきたいものです。


 新年一発目の古絵葉書は、ライフワークの北の大火です。

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 「大火のその後」という新聞記事を絵葉書にしたものを入手することができました。 「強行軍的の踏査 砂灰、火の粉と戦うこと六時間」 と謳っていますが、なるほど西の端から東の端までよく歩いています。真夏ですからさぞかし大変だったことでしょう。記事は少々おちゃらけた雰囲気のする書き方ですが、要所は押さえられた内容です。

 被災者の足もとを見て借家の値を吊り上げる不動産屋の話や、「施し車」という日用品や食料を無料で配るボランティア(民間だと思うのですが)があったことも記録されています。
 また、赤十字社が寒山寺(現在は存在しないようですが、兎我野町に「宗教法人寒山寺モータープール」という場所がありますので、関連があるのではないかと勝手に想像しています)で活動していることや、太融寺では大阪市が救護班を設置していることなども記されています。

 また、福島区には妙徳寺というお寺があり五百羅漢が有名だったそうですが、これも完全に焼け尽くされたようで...
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 この焼け尽くされた五百羅漢を揶揄するセリフも記事には載せられています。 「五百人も居ってサッパリ役に立たん五百アカンだ などとやじっているのが聞こえた」 というくだりです。大阪らしいといえば大阪らしいです。

 新年早々「五百アカン」という不謹慎なオチでよいのか、ちょっと不安です...

2016年10月20日 (木)

古絵葉書 キタの大火 その陸

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 上段から 「上福島天神社」 「大阪上福島一円火災後の惨況」 と題された二葉です。

 いずれも上福島付近の火災後の様子をあらわしています。
 北の大火はこの上福島を含む、福島地区で消し止められたのですが、発生から実にまる一昼夜が経過していました。消失戸数は11,365戸に上り、その中には、大阪控訴院や北区役所など官公庁11か所、学校8か所、銀行4か所が含まれています。さらに橋梁も21か所焼失していることから、鎮火後の大阪市の交通にも大いに影響を及ぼしました。

 そのような大火災のなかで、消火に携わった人々に注目してみたいと思います。

 当時の消防隊は警察の組織下にありました。出動した警察官吏の数は1,461人、消防隊が770人(近隣市町村応援を含む)、合わせて2,231人が出動しています。
 そして警察組織に加えて、この大火災に当たっては軍隊も出動していました。当時は軍隊における明確な災害救助活動は規定されていなかったようですが、治安出動に準拠した解釈で第四師団、3,541人の陸軍軍人が出動しました。

 消防装備に関しては、警察と軍隊、防災思想の違いでしょうか警察組織のほうが充実した装備(蒸気ポンプ10台、腕用ポンプ18台等)を備えていました。軍隊側では大阪砲兵工廠に蒸気ポンプが2台あるのみで、その防災思想は破壊消防でした。実際、爆弾による破壊消火も軍隊側から提案されたという記録があります(山下市長の反対で却下されました)。

 破壊消防はとにかく人手の問題です。建物を破壊して延焼を防ぐという方法は装備にかける費用は少なくて済みます。まさに人出の多い軍隊向けの防災思想といえるでしょう。一方、警察消防隊の消火消防は、ポンプなどの装備費用はかかりますが、人出は少なくて済みます。長い目で見れば人件費が浮きますので節約になるのでしょう。自治体向けの防災思想といえます。

 このように思想の違う両組織でしたが、よく協力して消火に当たっていたというべきでしょう。それでも指揮系統は相当に複雑であったようですが... 軍隊と地域消防との連携の黎明期に当たる、この大火での協力活動は評価に値するものだと思います。
 最初、堀川筋の家屋を軍の協力で破壊し第一防火線としましたが防ぎきれず、次に道路幅の広い梅田新道を第二防火線としましたが、これも効果をあげませんでした。軍から爆弾を使用しての破壊消火が提案されたのはどうやらこの時のことであったようです。また、控訴院を守るために隣接する市立小学校を破壊しようという提案に対し、実質、区の予算で建てられた小学校を区の許可なく破壊はできないという、見事なまでの役所理論で対応した山下市長のエピソードなども、このタイミングで記録されています。(結果かどうかは定かではありませんが、控訴院はその後焼け落ちました)
 さて、次に出入橋線を第三防火線としましたがここも火勢に突破され、第四防火線を福島方面の狭隘な場所に置き、ポンプを集中して防火に努めた結果、ようやく火勢を鎮めることに成功しました。この福島方面においては、類焼した寺の外壁を打ち破って避難民を誘導した軍の活躍なども記録されています。

 このキタの大火は、大都市における火災発生時の消防のありかたに課題を残しました。

 翌明治43年3月、政府は勅令によって大阪市消防規程を定め消防組織の改編が進められ、大阪市内に東西南北の四消防署と、二消防分署が設置されました。そして、実質において消防署が警察から独立することになり、同時にこの消防規程に従って各種の規程を定め、法制面での整備が進められたのでした。

 まさにキタの大火はエポックメイキングな出来事だったのです。


(参考)
新修大阪市史第6巻
朝田健太著 「明治期の都市火災と軍隊による災害派遣 ~明治四十二年大阪市における「北の大火」を中心に~」


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 北の大火については(南の大火も含めてですが)、本館で画像をまとめています。もしよろしければ、本館にもお越しください。

 

2012年6月13日 (水)

古絵葉書 キタの大火 その伍

 新修大阪市史(以下市史)によりますと、北の大火における被害状況は、焼失戸数11,365、罹災地面積1.2平方キロ、罹災町数51(内全滅町数20)、官公庁11、銀行4、学校8、会社10、橋梁21 が焼失または甚大な被害をうけたと記録されています。ただ人的被害についての記録を見出すことはできませんでした。これは当時の混乱の中で確認がとれなかったということでしょうか。

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 福島近辺の様子です。この付近でようやく鎮火させることに成功したのですが、市史によりますと、消火には市内の各警察署消防隊(当時の組織)だけでなく、郡部からの応援や、軍(第八、第三十七連隊および大阪砲兵工廠所属消防夫 等)からも人員を集め、必死の活動が行われたとのことでした。

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 大阪駅前の避難場所の様子です。一瞬なぜ星条旗?と思いましたが、よく見れば「みおつくし」大阪市の市章です。旗のデザインには必ず意味があるはずですので、いずれこの旗にも意匠の意味があるのではないかと思います(横棒の色や意味)。調べることができればいいなあと思います。

 

2012年6月 9日 (土)

古絵葉書 キタの大火 その肆

 引き続き北の大火からです。

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 蜆川(シジミガワ)は、正式には曽根崎川といいます。現在の北新地を流れていましたが、北の大火で生じた瓦礫処理により、川の上流側(東側)が埋め立てられています。絵葉書では川を避難舟が埋め尽くしていまが、蜆川周辺も延焼の範囲に入っていますので、この写真の数時間後には燃えつくされたものと思われます。

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 蜆川の下流側(西側)の南にあった、大阪府立堂島高等女学校(現 大阪府立大手前高等学校)の焼跡です。
 
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 高等女学校の東側にあった
市立大阪高等商業学校の焼跡です。後の大阪市立大学です。 

 (追記  大火の後、この場所を舞台に大事件が勃発します。ほんと、いつの時代もどうしようもない奴はいるものです... 事件の中身は後日ということで^^;)

 

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