時をかけるおとら

2019年2月28日 (木)

古絵葉書 熊本駅(時をかけるおとら)

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 二分の一線の形式ですので、大正後期から昭和初期にかけての一葉ということになります。

 鉄道には決して詳しくないのですべて受け売りになりますが、熊本市電の歴史は大正13年8月に始まります。ですから概ね一致する時期に作製されたのは間違いないでしょう。

 この絵柄自体は珍しいものではありません。熊本市電の歴史を紐解けば必ず出てくる絵柄です。 しかし...

 絵葉書としてみるときに鉄道車両が写っているかどうかでずいぶんと値段が変わるのです。それだけ鉄道物は人気なのです。わたしも嫌いではないのですが、あまり鉄道目的で高価なものは入手しません。

 おこづかいに限りがありますから...

 今回は特別でした。
 と、いうのも先ごろ熊本へ出張で出かけていたからで、その折に駅前や市電をバシャバシャ写真に撮っていたのでした。
 で、今月寸葉会でこの一葉を見つけ、ちょっと迷いながら購入したのでした。ちょっとだけ高かったからです。

 ま、お金の話はさておいて「時をかけるおとら」をやってみましょう。

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 のどかな駅前がいまや新幹線の停まる駅になっています。

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 熊本駅前の市電の駅も撮影したと思っていたのですが... ない。
 失敗しました。
 しかし、熊本市電は様々な種類の車両が走っており見ていてとても楽しかったです。運賃も安く(170円均一)、思わず全線走破してしまいました。

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 いやいや、楽しかったです。

 ああ、もちろん仕事が終わってから見物してましたよ。真面目に仕事はしておりました。

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 馬肉美味しかったなあ。

2018年12月31日 (月)

古絵葉書 京都府立第二高等女学校(時をかけるおとら)

 ずいぶん以前にご紹介した絵葉書ですが、縁があって現在の姿を見せていただくことが出来ました。

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 絵葉書そのものは昭和2年6月に実施された、京都府立第二高等女学校の遠足記念絵葉書です。絵柄は和装洋装混在の女子高生たちが写っており、当時のファッションが過渡期であったことがよくわかります。

 この、京都府立第二高等女学校は明治37年2月に、京都市上京区土手町通丸太町下ル駒の町に誕生(京都府立第一高等女学校跡地。第一高女は第二高女誕生時に校舎を譲り渡し、上京区寺町通の御所の真横に移転しました。現在の鴨沂高校です。)し、明治45年4月に二条離宮西、現在の中京区西ノ京式部町に移転し、現在では京都府立朱雀高等学校としてその歴史を刻んでいます。
 

 で、本題ですが、この朱雀高校に伝手があり校舎の外観撮影をさせていただくことが出来ました。ありがたいことです。

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 あたりまえですが女学校時代の面影はありません。
 現在の朱雀高校で一番古い校舎は昭和34年築だそうで(どれだかわかりませんが)、つまり絵葉書の校舎はすでに建て替えられているのです。
 
 昔の校舎の方が格好良いです。(ぼそっ)

 とはいえ、グランドは昔から変わり様がないと思います。この風景のどこかに遠足への集合のために多くの女子高生が集まっていたのです。そう考えるとちょっとトリップしそうです。これぞ「時をかけるおとら」の真骨頂ではなかろうか。(もっとも府二女の敷地については現在朱雀高校に隣接する京都市立二条中学校も含まれていたのかもしれません。新制中学発足時に、「府二高女内に京都市立中京中学校を併設し、云々」というくだりが後述の資料に含まれていました。だとすればグランドも様子が変わっているかもしれません。もうちょっと調べなくてはなりません... 2019.10.26追記)
(と、例によっておバカな早とちりがございました。明治41年高等女学校令(改正)によれば、入学資格は年齢十二歳以上で尋常小学校卒業者となっており、修業年限は4年or5年となっております。よって絵葉書の彼女たちは女子中学生と表現する方が正しいのかと思います... 2021.05.25追記)



 さて、朱雀高校正門近くにやたらと古い蔵が残っています。

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 左の建物です。学内では通称「蔵(くら)」と呼ばれ物置になっているそうですが、これが朱雀高校内で現存する最古の建築物で明治45年築とのことです。ということはこの建物は間違いなく当時の女子高生彼女たちを見ているのです。ううむ、ここでもトリップしてしまいます。

 この蔵から正門をはさんで反対側に石碑があります。

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 この場所が旧式部省(役人養成機関の大学寮を統括する重要な省。文部省(ぶんぶしょう)と呼ばれた時期もあるが現在の文部省との繋がりはない)跡地であることと、旧京都府立第二高等女学校跡地であることを表しています。
 つくづく崩し字が読めないことを恥じます。大きく書かれている文字が何を表しているのかがわかりません。

 ところで、この石碑の後ろに小さく別の石碑が建っているのに気が付きました。

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 「皇后陛下行啓記(念)」と書かれています。(本当に小さな碑です)

 で、はたと考えたのです。どなただろう、と。

 真っ先に思いつくのは貞明皇后(大正天皇皇后)です。大正13年の行啓は有名です(同志社女子大の歴史では必ず出てきます)。その時にここへも来られたのか。確かに数少ない女子高ですから不思議ではありません。
 しかしひっかかったのは「記」の字なのです。大正時代の石碑なら「紀念」としていても良いようなものです。そうすると昭和のそれも戦後に建てられたものか(実際にずいぶん経ってから記念碑を建てることはよくあります)。それにしては碑が古い。どうみても戦後ではないような気がします。ううむ、よくわかりません。昭和なら香淳皇后(昭和天皇皇后)ということも考えられますが、しかしそれにしてはやっぱり石碑が古い。

 学校を案内してくださった方も、この石碑の存在は知らなかったようで詳しいことは聞けませんでした。

 気になることがまたひとつ生まれました。いつか何かの拍子にわかるのかなあ。
 (朱雀高校(もしくは京府第二高女)の歴史をまとめた冊子か何かないのかなあ、それに書いてないのかなあ。  ...そうだ京都府立図書館に聞いてみようか)

 と、いうわけで... そのうち追記します。

 以上、2018年12月31日になんとか間に合ってアップできそうです。良かった。
 今年もいろいろとありましたが、なんとか続けることができています。完全に自己満足の世界なのですが、それでも自己顕示欲と承認欲求がほどほどに満たせるツールは本当にありがたいです。来年も頑張ろう。
 
 
2019.02.24 追記
 京都府立図書館に問い合わせ、「京都府立京都学・歴彩館」を紹介していただきました。北山にある施設です。で、そちらで「府二女」の同窓会六十周年記念誌を教えていただきました。
 
 結果...
 行啓はおそらく貞明皇后で間違いなさそうです。しかし、大正13年ではなく大正6年です。「大正6年11月14日 皇后行啓本校教育の状況左記台覧 一年生家事廃物利用、専攻科作法本式膳部のきょう応、四年生地理日本における氷河の遺跡、三年生物理熱のふく射、二年生生理呼気の炭酸ガス、三、四年生唱歌高き誉、松の操、その他、一、二年生体操及び寄宿舎全般」と記録されていました。
 
 しかし、記念碑の建立についての記録はなく、これはもうわからないのかもしれません。「紀念」と「記念」についてはある資料によると明治中期には混在して使用されていたとのことで、特に不自然ではないようです。
(京都市歴史資料館のサイトに「いしぶみデータベース」というものが公開されていますがここにもこの碑は含まれていませんでした。ドのつくマイナーな存在なのですね。2019.10.26追記)

 余談ですが...
 京都府立第二高等女学校については同窓会記念誌に、なかなかおもしろい記録(怪談話を含む)もありましたので、別の機会にご紹介できればと思います。


2019.10.26 追記
 皇后行啓については新聞記事に記録を見つけることが出来ました。

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 大正6年11月15日付大阪毎日新聞夕刊によりますと、14日午前8時30分、貞明皇后は京都御所の建春門を出発され府二女へ向かわれました。府二女では校門前に職員生徒同窓会員らが並び皇后をお迎えしたと記載されています。
 前述の同窓会記念誌にはその時の写真が掲載されていました。(ちょっとお借りします。怒られたら消します)

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 新聞記事に書かれているままの光景です。大変に名誉な出来事であったのでしょう。

 その後、午前10時30分校門を出、市立高等女学校へ向かわれたと書かれていますが、府二女においてはとりわけ、一、二年生による徒手体操が印象に残ったご様子だったそうです。

2018年7月29日 (日)

古絵葉書 キタの大火 その拾 (キタの大火を歩く 後編)

 さて、北新地を舐めつくした火の手は福島方面へ向かいます。

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 出入り橋のあたり、現在はNTTの建物がある場所にはかつて旧制大阪高等商業学校がありました。
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 住吉区杉本町にある大阪市立大学の前身にあたる学校でしたがこれも7月31日の午後十時半頃、灰燼に帰しました。
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 現在ではそのような災害があったことなど微塵も感じさせない佇まいです。
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 さらに西に進みます。

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 日が変わった8月1日午前零時二十五分、福島三天神のひとつ、上の天神が焼けおちます。現在は福島天満宮として再建されているこのお社は、こじんまりとした落ち着いたお社ですが当時はもう少しなにわ筋よりにあったそうです。

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 掲げられている社記にも「明治四十二年七月北区大火に類火炎上して一木をも残さず」と書かれていました。確かに絵葉書を見れば誇張ではないことがわかります。

 この上の天神から少し北に、かつて「五百羅漢」として観光対象にもなっていたお寺、妙徳寺がありましたが、ここも焼けています。
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 この場所に関しては国道二号線沿いに案内板が出ています。
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 逆光で見にくいのですが北の方角へ50mの距離です。  ...しかし!

 そっちへ行っても何にもないのです! 立て看板一つありません。

 ま、事前に調べてわかってはいたのですがね。その場所が現在の福島公園にあたるということは。

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 幾人かの幼女が遊んでいましたが、なんとか写らないように撮影しました。通報されたらどうしよう、と、わりと本気で気にしていました(笑)。
 しかし、公園をぐるっと一周しましたが、本当に何の案内もありません。遺構がないのは良いのです。ただ国道に案内出すんなら現地に「〇〇跡」くらいの案内も出そうよ、と思うのですが如何でしょうか。
 ちなみに妙徳寺はその後東大阪へ移転しています。残念ながら五百羅漢は... もうありません。

 やがて大火は最終局面を迎えます。
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 当時、通称「焼止」と呼ばれたあたりです。現在の福島区福島3丁目から4丁目付近になります。

 当時このあたりには日本紡績・福島紡績の二社の工場がありました。これら紡績工場のレンガ塀に阻まれて(もちろん集中的な消火活動も功を奏しました)さしもの大火も鎮火したのでした。8月1日午前6時30分と記録されています。発生からまる1昼夜、約26時間にわたる大火災でした。(火災広報(大阪府警察部より内務大臣に向け報告された内容)では午前4時鎮火となっています)

 この焼止のレンガ塀がどこのものかは その捌 で述べてみましたが、当時の遺構、というよりも紡績会社の遺構というべきものが現在の下福島公園に残っています。
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 まったくどこにでも下手糞な落書きをする輩はいるものです。
 これらのレンガ塀が直接火を遮った塀ではないでしょうが、それでも当時の気配を感じることはできそうです(落書きを除いて)。そしてこの塀の前で疲労困憊へろへろになりながら消火に携わった人たちのことも忘れてはなりません。

 火元から鎮火場所までてくてくと結構歩きました。途中で京阪電車のお世話にもなりましたが、しかし6月(2017年)とはいえ夏にするものではないですね。暑かったですしメタボのおじさんにはきつかったです。情けない。
 でもなんとか1年遅れではありましたが、7月31日に間に合わせて記事をupすることが出来ました。良かった良かった。
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(参考)
 「大阪市大火救護誌」 明治43年 大阪市
 「大阪大火画報」明治42年 有楽社
 「新修大阪市史」平成6年 大阪市
 「大阪市新地圖 : 改正新町名入」明治33年  国際日本文化研究センター所蔵

2018年5月30日 (水)

古絵葉書 キタの大火 その玖 (キタの大火を歩く 前編)

 「北の大火」についてはいつの間にかライフワークのようなものになっておりまして、以前から書いてみたい記事として構想を持っていたのが、「 「北の大火」を歩く 」 というものでした。
 で、実は去年の7月31日(大火の発生した日)にあわせて記事を書きかけておりまして、現地取材も去年の春から夏にかけて行っておりました。

 でも結局、upは今頃になってしまいました。

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 火元は北区天満の空心町2丁目70番地メリヤス製造工場からでした。出火原因は火の始末を年老いた母親にまかせっきりにしたことにより、消し忘れた火がランプの油壷に落ちたことにはじまったものです。時に明治42年7月31日午前4時20分のことでした。

 大正3年の地図を引用させていただきます。
(日文研)

 「大火救護誌」によりますと、出火後 「毒焔直に走って近接の松ヶ枝尋常小学校を舐む」 とあります。
 地図にある松枝小学校と真向かいにある専念寺を手掛かりにしてみますと、この専念寺は現在でもこの場所にあり、つまりその向かいの現扇町総合高等学校に松枝小学校があったことになります。
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 近接する場所が、火元のメリヤス工場というわけですので、「大阪大火画報」の地図などを参考に天満橋筋沿いの一角を勝手に決めてみました。
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 この駐車場のあたりでどうでしょうか。奥の建物は扇町総合高校です。

 余談になりますが、8月2日付の新聞では、出火元の主人は火災後、子供が行方不明になったと錯乱状態になり、火の中へ飛び込もうとするところを抑えられ、近隣の回生病院へ収容されます。鎮静したところを病院より北署へ通報されますが、北署も火災でてんやわんやであったため放置されていましたところ、やがて火が病院にも迫り、避難を余儀なくされましたがそのどさくさで行方不明となったとのことです。
 しかし、翌日の新聞では、発火を確認したのち、妻と4歳の長女、年老いた母親の3人を救出したのち、茫然として火事場付近をさまよっていたところを北署刑事に発見されましたが、気が動転し失神もしたりしたようで、落ち着かせるため回生病院に預けられ、翌8月1日、中之島公会堂の北署仮庁舎へ出頭し事情聴取を受けています。その後、東区の妻の実家へ避難したようです。

 なんか、えらく内容が違う^^; 混乱のさなかでの取材は大変なのですね。

 いずれ、この火元の主人については集中的に記事にしようと思っています。いや、いろいろとしでかしているのですよ、彼は。

 最終的に主人の失火と認められ、罰金三百円(払えないときは二百日の労役)という判決を明治42年9月に受けています。

 
 
 話を戻します。
 出火後、強い東風に乗った火災は、第一防火線の堀川筋を突破した後、西へ南へと燃え広がります。

 南の方へ広がった火は衰えることなくその強さを増し、午後5時頃、控訴院へ襲い掛かります。

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 堂島川をはさんで、阪神高速高架橋の向こう側にある建物が大阪高等・地方・簡易裁判所合同庁舎であり、昔の控訴院です。中之島公園から撮影しましたが、川幅がずいぶんと狭くなったように思えます。

 大阪控訴院は午後七時から八時にかけて全焼しています。

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 そしてほぼ同じころ、控訴院よりやや西にある大江橋も半焼してしまいました。
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 現在の大江橋は、大動脈御堂筋を担う主要な橋梁として、昭和10年に架けられました。

 さて、堀川筋を突破して西の方角へ向かった火勢はどうなったでしょうか。
 午後5時頃には梅田新道へ到達しようとしておりましたが、ほどなく梅田新道を突破し、いわゆる北新地を飲み込んでいきます。

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 その当時、この場所には遊郭があり、また曽根崎川、別名、蜆川と呼ばれる川がありました。
 火勢が新地に迫り始めたころ、娼妓たちは大慌てで避難を開始し始め、荷物を含めて曽根崎川(蜆川)を舟で下ろうとします。結果、川には舟があふれます。

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 火の手は川を飲み込み、北新地は文字どおり灰燼に帰します。

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 現在の北新地には、旧曽根崎川を中心として、いくつかの碑が残されています。

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 史跡蜆川跡としてのしじみ橋の名残です。御堂筋沿いにひっそりと残っています。ちなみにこのしじみ橋は、文久3(1863)年6月、壬生浪士組(のちの新選組)の芹沢鴨らと相撲力士たちが睨みあった歴史の一コマの舞台です。

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 曽根崎川に架かっていた桜橋を偲ぶ碑が、今日の桜橋交差点近くの一角に地味に建っています。


 さて、火勢はいよいよ福島に向かっていきます。

 後編へ続く。

2017年1月15日 (日)

古絵葉書 三条大橋(高山彦九郎)

 京都の三条大橋は東海道の西の起点です。ずっと東へ歩いていくと、東京の日本橋に至るんだなあと考えると、少し不思議な気がします。

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 大正後期と思われる三条大橋です。橋を渡る人々は、真ん中などを歩き、まだのんびりとしています。

 それが...
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 昭和になりますと、車道と歩道の区別がついているように見え、心持ちせわしさを感じるようになっています。 (1950年(昭和25年)、コンクリート製の橋に改修されていますが、絵葉書の橋は木製に見えます。また「きがは便郵」表示ですので、戦前の風景であるのは間違いないでしょう)

 この二葉の絵葉書の決定的な違いのひとつに「高山彦九郎皇居望拝之像」の有無があります。東側のたもとにある像です。
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 左が大正期、右が昭和期です。赤丸で囲んでいるのが「高山彦九郎皇居望拝之像」です。大正期のものには写っていません。

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 このような像です。「土下座像」と表現されることもあるようですが、正しくは皇居を伏し拝んでいる姿を現したもので、1928年(昭和3年)に建てられました。


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 こちらの絵葉書を見ると(現実のシーンを)イメージしやすいかもしれません。この絵葉書も大正後期から昭和初期にかけてのものです。


 この高山彦九郎正之という人物について、興味がありましたので調べてみました。例によって知ったかぶりの蘊蓄です ^^;

 高山彦九郎正之は、1747年、上野国新田郡(現在の群馬県太田市)に産まれた江戸時代後期の尊王思想家です(wiki先生)。
 存命中より多くの勤皇家に影響を与えた「行動する」思想家であり、その生涯は旅の空の下に終始します。
 明治維新後、彼の勤皇の姿勢は高く評価され、その評価は軍国主義の高まりとともに大きなものとなっていったようです。今回、主な資料とさせていただいたのは昭和十八年出版の書籍ですので、かなりバイアスがかかっているかもしれませんが、勉強になる書籍でした。

 彦九郎の高山家が初めて歴史に現れるのは鎌倉時代です。吾妻鏡には、頼朝が奥州藤原泰衡を討つ際の軍勢の中に高山氏の名が記録されています。そこには 「北陸道大将軍比企藤四郎能員、宇佐平次実政等は...上野国高山、小林、大胡、佐貫等の住人を相擁し、...」 とあり(「住人」は「土豪」と理解してもよさそうです)、この当時からの武士であれば、かなりの名門といえるでしょう。

 その後、歴史に登場するのは、鎌倉時代末期、太平記の時代で、新田義貞の家臣に高山遠江守の名があり 「新田十六騎」 として活躍しています。鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政を経て、足利尊氏の反逆と天皇方であった新田義貞との戦い、その敗北、と、歴史は動きましたが、この動きは、成長した彦九郎に大きな影響を与えました。

 それは、「忠臣」 です。

 後年、彦九郎は新田義貞の塚に参り、 「吾拝して忠臣の死を思うて立ち戻りてまた拝す 忠臣の人を感ぜしむるは甚だしきものかな」 と、日記に残しています。
 
 彦九郎は18歳にして家を出ます。1764年(明和元年)3月、上京した彼は三条大橋で皇居の場所を尋ねますが、教えられたその場所はあまりにも小さく、且つ荒れていたのでした。皇居の明かりが破れた塀から漏れていたともいわれていますが、愕然とした彼は悲憤のあまり伏し拝み、涙します。頼山陽(江戸時代後期の歴史家)が、 「即ち地に座し拝跪して曰く、草莽の臣正之」 と記しているのがこの時の出来事であり、絵葉書の望拝の姿なのです。彦九郎はこの時、 「東山に上りて見れば哀れなり 手のひらほどの大宮どころ」 と、歌を詠んだと伝えられています。

 やがて、 「尊号一件」 と呼ばれる事件、光格天皇が父に上皇の称号を贈ろうとしたところ、幕府(老中松平定信)が強く反対した事件を機に、彼の名は島津家次期当主斉宣の耳に入り、また、光格天皇の耳にまで達したのでした。この「尊号一件」にあたり、彦九郎は島津の力を借りるべく鹿児島に向かいます。

 しかし、鹿児島で彦九郎を待っていたのは落胆でした。新藩主斉宣と前藩主重豪との確執から目的を果たすことができなかったのです。
 加えて、彦九郎には幕府の監視の目が光るようになりました。危険人物としてマークされるようになったのです。

 彼は自決を決意します。

 彼の日記は 「夜雨降る」 という言葉で終わっており、その翌々日に切腹しています。(1793年(寛政5年))
 
 辞世の句は 「朽ち果てて身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを」 「松崎の駅の長に問いて知れ 心つくしの旅のあらまし」 という二首でした。後者の句は、鹿児島を出て久留米の松崎という地で「尊号一件」が朝廷側の敗北に終わったことを聞いた瞬間の、彼の絶望を物語っているといえるかもしれません。 

 なお、王政復古はそれから75年後の1868年(慶應3年)になります。
 彦九郎の思想は吉田松陰に引き継がれ、明治維新の原動力へとつながっていきました。


 このような人物であった高山彦九郎ですが、戦前戦中教育の反動といいますか、戦後はほとんど語られることがなくなったようです。三条大橋の銅像は彼を顕彰したものですが、単なるエキセントリックなおじさんという印象しか抱いていない人も少なくないと思います。彼の活躍は結果的には時期尚早、空振りと終りましたが、時代を先んじた人の宿命みたいなものなのかもしれません。


 なお、現代の高山彦九郎像はといいますと、
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 こんな感じになっており、しっかり御所の方角を拝んでいます。(現在の像は、1961年に再建された2代目です。初代は戦中の金属類回収令で供出されています。)

 私は高山彦九郎のたとえ独りでも東奔西走する姿が好きです。思い込みの激しさもあったかもしれませんが信じる道をまっすぐに突き進む姿と、事が終わった時の潔さが好きです。

 私には無いものです。


2019.11.17 追記
 初代高山彦九郎像建立について少し調べてみました。
 東京朝日新聞(昭和3年(1928)1月25日)に、「三条大橋へ 高山彦九郎の銅像 御大禮(礼)までに建設」という記事が載せられていました。発起人は京都向日町の日蓮宗僧侶です。「御大礼」とは「昭和の即位の礼」を指し、昭和3年11月10日に京都御所で執り行われていますが、それまでに像を三条大橋橋畔に建設するという内容の記事です。
 同年11月6日に昭和天皇は京都へ行幸されますが、京都日出新聞(現京都新聞)では、御大礼にまつわる一連の記事を諸々掲載する中、11月9日付で、「細雨霏々(さいうひひ)たる中に 彦九郎像除幕式」という記事を写真付きで掲載しています。
(細雨霏々 (細雨霏霏)とは細かな雨が絶え間なく降りしきるさま、という意味です)
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 記事を引用してみたいと思います。少し長くなりますが、戦前の彦九郎への世間の見方が窺われるのではないかと思います。
 「国士高山彦九郎正之の銅像除幕式は既記の如く三条橋畔に建設されそ(?)が、除幕式を両陛下京都皇居御入御の翌八日午後三時挙行されたことは、もっとも意義あるものとして一層に感慨からしめた。 (中略) 折柄降雨霏々、当年彦九郎が三条橋上涙滂沱として皇居を拝したる有様を彷彿せしめるかの如く、思いはしきりに憂世慨国の志士に及び参列者のいずれもが等しく銅像建設発起人および賛成人の努力に感謝の念を注がねばおかなかった」
 降りしきる雨さえも彦九郎の涙になぞらえるあたり、「忠臣高山彦九郎」は戦前の社会で確実に受け入れられていたように思います。
 ただ即位の礼の直前、ただでさえいろいろと大変な時期にイベントを増やしてどうするんだ、という気がするのは私だけでしょうか。10月中にできなかったのかと...

 さて、建設された彦九郎像ですが、太平洋戦争の真っただ中、金属類回収令にしたがい供出されます。
 Wiki先生には昭和19年(1944)11月の出来事と書かれていましたので、なにか記事がないか調べてみたのですが、「神風」「特攻」の文字が踊り、また「大東亜戦散華」の文字と顔写真が(毎日毎日)いくつも掲載される新聞記事を一カ月繰ってみましたが見つけることはできませんでした。
 ただ金属回収については躍起になって実行されていたのは確かなようで、特に11月中は「銀」の供出に力が入れられていたようです。しかしなかなか集まらなかったようで、締め切りが何度も延ばされ、挙句に「京都 不良」の文字と共に再供出の期間が設定されていました。京都人、なかなかに強かだなあと思いました。

 余談ですが、金属回収に関しての詐欺もしばしば検挙されています。公的な供出と偽って金属を集め、国外へ持ち出そうとして、しばしば検挙されています。「非国民」の文字が踊っていました。




(参考) 萩原進 著 「草莽の臣 高山彦九郎」昭和18年 (文進社 刊)

2016年12月 5日 (月)

古絵葉書 銀座松屋百貨店

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 「銀座大街に聳ゆる松屋百貨店」 と題された昭和初期の絵葉書です。

 wiki先生によりますと1925年(大正14年)に開業した建物のようで、今日でも銀座三越と首位の座を争う百貨店だそうです(関西人の私にはピンとこないのですが)。

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 先日、東京へ遊びに行った折に見学してきました。絵葉書の面影はありません。

 

 ...絵葉書の面影も大切なのですが、むしろ「アンドロイド0指令」の「M地点」がここなのだという感慨のほうが深かったです。(なんのことやら^^;)

2016年9月23日 (金)

古絵葉書 ミナミの大火 その3

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 「大火焼失略図」(上左)、「南区陳列所の残骸」(上右)、「電気館焼跡」(下) の3葉です。

 1912年(明治45年)1月16日の未明、南区難波新地4番町の貸座敷「遊楽館」からの出火が原因の 「南の大火」 ですが、この「遊楽館」とはどこにあったのだろうかと疑問でした。ネットやその他資料に当たっても、なかなか「現在地はここ」という一文に出会えません。

 今回、「大火焼失略図」を入手し、「火元」と書かれた部分を見て、よしこれでわかるぞと思ったのでした。なお、南の大火の焼失区域については、別の資料から地図を見ることもできますが、なかなか一定していません。(この略図とも範囲が微妙に違うのです。火元あたりも一致しません)

 しかし、せっかく手に入れた絵葉書です。今回はこれを信じてこの「火元」へ行ってみたいと思いました。すなわち「新戎橋筋」です。

 明治263月に架橋された新戎橋は、よく知られた「戎橋」よりも御堂筋を挟んだ西側にあり、橋長が130尺(394m)、幅員20尺(61m)の木橋でありました。ここから5つ目の「通り」付近が「火元」となっています。現代の地図で当てはめてみますと、概ね「近鉄難波ビル」付近となるでしょうか。しかし、焼跡を整備して敷設された「千日前通り」は、火除け地としての機能も持たされており、当時としてはかなり広い道路、一区画分丸々の道路幅であったことを考えると、どうやら「遊楽館」は千日前通りの一角と考えるほうが自然かもしれません。考えてみれば火元は起点です。西からの風にあおられ北西に燃え広がっていったわけですから、南の方角は焼け残っているはずです。焼け残った場所をわざわざ整地して道路にするのは、ちょっと無理があるような気がします。(この場所は「新地」であり、遊郭であったことを考えるとなおさらです)

 というわけで...

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 新戎橋筋沿いの千日前通りの一角である、この写真の場所(道路上)が「遊楽館」ではないかと思うのですが如何でしょうか。(右端の建物は近鉄難波ビルです)

 勿論、当時の住所地と現在の住所地を比較しながら調べることもできるかもしれませんが、残念ながら気力がありません^^; 

 また、火元に関しては既に特定されていて、「そんなとこじゃねえよ」となるのかもしれません。もし正確なことをご存知の方がいらっしゃれば、ご教示ください。お願いいたします。(なんか「北の大火」に比べて力の入れ具合が違うと自分でも思います)


 (宣伝)^^;
 南の大火については(北の大火も含めてですが)、本館で画像をまとめています。もしよろしければ、本館にもお越しください。

2016年9月 3日 (土)

古絵葉書 東京丸の内ビルデング

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 絵葉書は昭和初期の旧丸ビルの様子です。当時であっても繁華な地域であったに違いありませんが、現代の目から見るとのんびりした風景にも映ります。

 丸の内ビルディングは、東京駅前、千代田区丸の内二丁目に所在する、三菱地所保有のオフィスビルです。

 1923年(大正12年)に建てられたこの建物は、鉄骨鉄筋コンクリート造地上8階地下1階、戦前(昭和)では日本最大の建物であったそうです。1999年(平成11年)に取り壊され、2002年(平成14年)、地上180m、37階建てビルに建て替えられていますが、取り壊しにあたっては、日本建築学会から 「丸の内ビルディングの保存に関する要望書」 が提出されています(結果的には叶わなかったのですが)。その要望書を見ますと、この建物の「価値」がわかりやすく記されています。

 旧丸の内ビルは、日本人初の英国公認建築士である桜井小太郎の設計により建設されました。桜井小太郎という方は、大変に著名な方のようで、旧三菱銀行京都支店(現存しません)などを手掛けておられ、今の神戸市立博物館もこの方の手になるものだそうです。

 さらに、要望書には、この建物が日本の建築界に著しい技術革新をもたらした記念すべき建物であると述べられています。それまで人力中心であった建築業界に衝撃を与えた技術、すなわち大型コンクリートミキサー,吊り足場,スチームハンマー,資材のトラック輸送などの機械類を導入し,2年半という短期間の工事であったという、現代から見れば当然のような技術の先駆けであったというのです。さらに、関東大震災という大きな震災を経験した、東京で現存(当時)する数少ない一棟であると、その歴史的意義を強調しています。

 このような丸ビルでしたが、先述の通り、容赦なく全面建て替えとなり、現在は現在で、立派な建物に生まれ変わっています。
 (地上8階と書きましたが、wiki先生では9階となっています。本稿では日本建築協会の8階との記載を優先させていただきました)


(2016.11.27 追記)
 昨日まで東京へ遊びに行っておりました。その折の丸の内ビルです。
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 駅前の工事はいつ終わるのでしょうか。

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 別角度です。立派な建物です。

2015年11月 3日 (火)

古絵葉書 高浜海水浴場(若宮海水浴場)

 海水浴の絵葉書は好きです。これまでも何枚かご紹介した事があると思います。

 その中で福井県高浜町は今でも水の綺麗な海水浴場を複数もち、近隣の府県などから臨海学校や行楽に、昔から利用されていたようです。

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 いずれも昭和初期の「高浜海水浴場」となっていますが、複数ある海水浴場のうち上に掲げた場所は特徴的な背景から「若宮海水浴場」という事がわかりました。

 で、今はどのような景色なのかと「時をかけるおとら」をやってみました。

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 大きな変化はありませんでした。満潮である事が誤算でしたが、若干の整備があるものの、ほぼ当時の風景を眺める事ができたかと思います。この場所で昔からたくさんの人々が海水浴を行っていた(なかには鍛錬という言葉が似合う絵葉書もありますが^^;)のかと思うと、少し感慨深かったです。

2013年10月16日 (水)

古絵葉書 上野公園

 東京へ行ったおりに上野公園へ寄ってみました。

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 明治40年の絵葉書です。

 場所を探すのに苦労するかなあ、と思っていましたが、あっさりと電車の窓から見つけてしまいました。京成電鉄京成上野駅のそばでした。

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 ほとんど変わらずに存在しているのを確認できると嬉しくなります。しかし人々のファッションも100年たつとずいぶんと変わります。

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 上野の西郷さんです。一度見たかった^^。 しかし、徳川家の墓所だった土地に西郷隆盛像を建てたのには意味があるんでしょうか? うーん、気になるなあ。

 西郷像は明治31年に建てられたそうですので、絵葉書の頃にはすでに建っていたのですね。まだ新しい銅像だったことでしょう。

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 彰義隊のお墓です。ここも一度来たかった場所です。徳川慶喜に見捨てられた彰義隊は大村益次郎指揮下の官軍によりあっけなく討伐されてしまいました。手塚治虫の『陽だまりの樹』のクライマックスシーンを思い出します。

 

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