古絵葉書

2022年12月31日 (土)

古絵葉書 弓を習う女学生

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1/2線ですので大正中期以降の絵葉書です。

外国人向けの絵葉書(JAPANESE WOMENS' LIVES)だろうと思われます。場所は不明ですがどこかの高等女学校における弓の教練を写したものです。「技藝科(教)室」と門柱に掲げられています。
「さま」になっていたりいなかったりしますが基本的に凛々しい顔立ちの少女たちだと思います。
先生も怖そうです。

さて、どうでも良いことなのですが校舎?の屋根に目が向いてしまいました。

天窓です。

簡単に調べただけですが、すでに江戸時代には天窓が存在し、引綱で開閉する「引窓(大和窓ともいう)」が屋根勾配に沿って付けられることがあったそうです。主に台所などの採光や煙出しに使用するものだそうですが、大正時代には国産硝子も普及しつつあったそうですので、採光目的に教室へガラスを使用した天窓が設置されていてもおかしくはないかも... っと、ガラスに見えるんですけど、たぶんガラスですよねえ。


今年も数えるほどしか更新しなかったブログです。
来年はどんなものでしょうか。

2022年10月 2日 (日)

古絵葉書 国勢調査 その拾(後編)

後編です。

大正14年簡易調査が行われたことを示す絵葉書は、2013年10月1日付記事で紹介済みです。
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 しかし、今回じっくりこの絵葉書を眺めておりますと、やたら情報量の多い一枚であることに気が付きました。

 舞妓さんの背景に国勢調査のポスターが貼られています。「大正十四年国勢調査」と書かれていますので簡易調査の実施を示す一枚です。
 舞妓さんなので撮影場所は京都だな。 ...と思ったのでした。舞妓さんの進行方向にはなにやら風流な書画が飾られています。うん、これは京都っぽい。

 しかしですね、このポスター拡大しますと「大阪府」と書いてあるんです。 ん? 舞妓さんだから京都...
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 さらに舞妓さんの左、戸口のあたりを拡大すると「電話 新町二二三二」とか書いてある。京都には新町通りってあるよなあ。歴史スポット巡りと山鉾巡行... 京都っぽい土地だから舞妓さんに似合うよなあ。

 でもね...
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 絵葉書の絵柄、右端あたりを拡大しますと「河辺青蘭女史」と、おそらく絵の作者を紹介する木札がかかってる。調べてみますと河辺青蘭という人はこの時代の女性日本画家で、多くの門弟を輩出した有名な方のようです(すみません、絵の分野はさっぱりです)。そして大阪南堀江の方だということもわかりました。
 南堀江っていうと大阪の新町遊郭の近く... 舞妓をググってみるとwiki先生には、京都以外の舞妓として「大阪市には太平洋戦争前には舞妓が居た。京都とは異なり、帯結びが腰元の様な立て矢であるのが特徴(「やぎっちゃ」という結び方)。また髪型も京風の引き鬢ではなく、江戸風の出し鬢であった」と書かれているではないですか。でも絵葉書の舞妓さんの装束が大阪のものかどうかはよくわからない。見る人が見ればわかるんでしょうけれど。
 さらに電話番号も大阪における当時の電話番号帳が残っているところから根気よく探せば見つかるかもしれない。

 ...やらないだけで。

 余談ですが、拡大すると仁丹の看板が見えます。そしておそらく「仁丹の体温計」と書かれた看板には「舶来品に優る国産品」と書かれているような。
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 森下南陽堂は大阪の道修町ですが、後、赤線検温器株式会社に出資し仁丹体温計の販売を行っています。その赤線検温器株式会社が後のテルモになるらしい。
 これら一連の流れがこの壁の看板から学べるのです。うん、広く浅くはきりがないな。
 きりがないついでに、国勢調査のポスター横に「失業統計調査」と貼り紙が出ています。国勢調査に合わせて行われた調査で第一次大戦後の不景気による失業者の世界的な増加が背景にあるようです。
 そういえば仁丹の体温計も第一次大戦により体温計の輸入ができなくなったことから、製造されるようになったそうです。

 閑話休題
 おそらく本気で調べると推測ではなく結論まで導くことができるだろうと思うこの絵葉書の背景ですが、でもしんどいから中途半端にしておきます。そのうちなんとなく答えが出てくると思うのです。「おとらのしっぽ」はこのパターンなので。

 以上、とてもとても中途半端な後編でした。

2022年10月 1日 (土)

古絵葉書 国勢調査 その拾(前編)

 10月1日には国勢調査に係る絵葉書で蘊蓄、というのが「おとらのしっぽ」でのここ数年の傾向で、たとえ更新が滞っていても、今年もなんとか頑張ってみようかな、などと考えるのでした。

 で、今年は9月の寸葉会において昭和5年の国勢調査絵葉書をタトウ付きで入手できたので、これをネタにしようと考えたのでした。
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が...

 実は調べる過程でひとつの疑問が膨らんで(ささいな疑問なのですが)、調べ始めるといろいろな事がとっ散らかって収拾がつかなくなってしまいました。
 なので前後編に分けます。

 例によって中途半端な調査です。アプローチ方法はわかっていても気力が続かない、ということでもあります。まあ、趣味の範囲だからそれも良いか。

 さて、この時期(大正から昭和初期)の国勢調査についてはかねてから一つの疑問がありました。

 「第〇回国勢調査」のカウントの仕方です。

 総務省統計局発行の「国勢調査100年のあゆみ(令和元年10月発行)」では、大正14年国勢調査を第2回、昭和5年を第3回と表現しています。統計局発行の資料ですのでオフィシャル版です。

 しかし、昭和5年国勢調査の絵葉書では「第二回国勢調査」の記念切手と消印が... では大正14年国勢調査とはどのような位置づけだったのか。

 実は2013年10月1日付記事で少し触れているのですが、大正14年は簡易調査なのでカウントされていなかった、と言えば言えるのですが、ずいぶんとお茶を濁した記事でした。ところが2020年1月発行の「統計図書館ミニトピックスNo23 第2回国勢調査はいつなのか?-国勢調査に係る統計史料を訪ねて【その8】 奥積 雅彦(総務省統計図書館)著」という資料を読むことにより氷解しました。

 氷解と言いましたが、本当にわかりやすく資料付きで解説してくれています。

 簡単に言うと、
①「国勢調査やるよ」法律では第一回と第二回のカウントは規定されているけれど、それ以降の法律では第〇回という表現は使われていない。
②第一回を行った後、5年ごとに簡易調査をすることにして法律を改正した。でも第二回と規定した国勢調査とは大規模調査を指すので、簡易調査はカウントされない。
(めんどくさいことに最初の法律では10年に一回と規定された調査も「第二回」に限り「第一回」の5年後に実施すると決められたのですが、その後これはなかったことになり10年に一回と法改正されました。でもなんか「第二回」の文言だけは残ったみたいです。
③「第一回」を行った後に、後付けで「5年に一回簡易調査やるよ」法律が出来上がり、大正14年国勢調査が実施されたけど、「ん? 第二回? 簡易調査だからノーカン(想像です)」という流れのようです。

 で、それ以後、法的には第〇回表記はなくなったので、正式にはそのような回数表現はないのですが、昭和40年、国勢調査記念切手で簡易調査もひっくるめたトータル回数で第10回国勢調査と銘打ったのでした。まあ、ややこしいことは考えなくて良いよね。法律違反じゃないし。

 なので、2025年に予定される簡易調査は第22回とカウントされるのでした。


 ...ここから申し訳程度に絵葉書の解説です。
 タトウも含めて5画像あげました。過去にあげた絵柄もありますが改めてです。というのもタトウの中に解説文が含まれていたからです。オフィシャルの解説です。
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 意外に感じたのは第三図に遼東半島が含まれていることでした。日清戦争で分捕ったのは良いものの三国干渉でロシアに取り上げられて、日露戦争で取り返したという大雑把な流れですが、確かにこの時期は関東州がおかれた日本の植民地です。
 久しぶりにこのあたりについての歴史の授業を思い出しました。

 ところで、お気づきかもしれませんが、これらの絵葉書は大阪府統計協会発行のものです。オフィシャルですがローカルです。他地域発行のものも当然ありますのでぼつぼつと蒐集していこうと思うのです。


 以上、前編でした。

 後編では大正14年簡易調査に係る2013年10月1日付記事で紹介した絵葉書から、とてもとても中途半端な蘊蓄を傾けます。

2022年7月10日 (日)

古絵葉書 桶屋

 ずいぶんと久しぶりに更新します。
 どうも体調がすっきりしなくて、メンタルも弱いので気が向かないときはとことん向かないのです。

 ...困ったなあ。


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「桶屋」とキャプションの入った大正後期の絵葉書です。
二人の人物が向かい合って桶の制作に励んでいます。

どうも明治から「桶屋」というのは葬儀屋(棺桶を作るから)とも同義であったと別の資料には書かれていましたが、この画像では桶あるいは樽を作っている風景です。

私は「工作」は好きなのですが、手先が不器用なので満足のいくような工作物はとんと作れません。
巧みに日用品を制作する職人に憧れるのです。




2022年1月 1日 (土)

古絵葉書 第一回交通紀念絵葉書(続編)その弐

年が明けて最初の記事は、大晦日の記事の続きになります。
今年はもう少しまめに更新したいと思いつつ、おとらのしっぽ本館のリニューアル、および「北の大火を調べる」の記事追加などにも精力的に取り掛かりたいのですが... なかなか難しいものです。


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「交通」誌上では左が「甲」、右が「乙」と呼ばれている二枚一組の絵葉書です。

誌上(「交通」誌明治39年7月25日発行第371号)で解説されている意匠(絵柄)について、少しお伝えしたいと思います。

「甲(左側)」、逓信省本館の光景と山縣逓相及仲小路次官の肖像、となっています。誌上の表現では「戦時の交通事業は一に此裡(このうち)に画策されたるもの玆(ここ)にそが光景と肖像を縮写し周囲には警抜(けいばつ)を極めたる意匠彩色を用いたり」となっています。
ここで言う「戦時」とは日露戦争のことで、前回にも述べましたが郵便(通信を含む)のみならず運輸も含めた行政が逓信省の管轄でしたので、戦争中の交通事業は確かに逓信省の差配で成り立っていたと言えるでしょう。逆に言えば、「交通」の範疇には「郵便」も含まれていたと言えます。
肖像の右側は当時の逓信大臣「山縣伊三郎」であり、この人は明治の元勲(私個人的には含めたくないのですが(笑))、山縣有朋の甥であり養子となった人物です。

「乙(右側)」、神田局前観兵式紀念絵葉書発売の壮観、となっています。同様に誌上の表現では「本春帝都の中央に新築されたる該局(神田局)の宏壮(こうそう)は東京市における一偉観たるもの茲に該局が紀念葉書発売当時の大壮観に配するに市街及電車運転の状を以てし光景を眼前に歴々たらしむ」とされています。
日露戦争後の凱旋に係る逓信省としての一大イベント凱旋紀念絵葉書(満州軍総司令部凱旋、陸軍凱旋、海軍凱旋 の一連の絵葉書)発行と紀念スタンプ押印で、日本の絵葉書ブームは頂点を迎えました。それを象徴する神田局前の大行列の様子は、ある意味逓信省としての「凱旋」なのかもしれません。加えて1903年に開通した東京市街鉄道の電車の存在は(私からはおまけにしか見えないのですが)、「交通」誌の付録として相応しいものだと言えるでしょう。


さて、
多少のツッコミを入れつつも、だらだらと絵葉書の意匠について記してきました。
これらを踏まえて「交通」誌上で述べられる当該絵葉書発行の背景についても触れたいと思います。
そして「第一回」交通紀念絵葉書、と銘打たれているにもかかわらずどこをどう探しても「第二回」が見つからない理由の推測も含めて、です。

再三述べていますが明治39年当時は絵葉書流行のピークでした。収集家同士の取引も盛んにおこなわれ「絵葉書交換会」と名付けられた即売会も頻繁に開催されていました。
これは儲けのチャンスです。様々な業者が乱立し絵葉書を制作しますがここで問題が生じます。粗製乱造と公序良俗に反する製品の流通です。

非常に面白いテーマなのでいずれじっくりと文章にしたいと思うのですが、今回は「交通」誌上の記述から簡単に触れてみます。

付録として発行されたその号に、「交通紀念絵葉書発行」と題して一文が載せられていますが、そこでは絵葉書の隆盛に触れつつも問題提起として「野卑拙劣風俗を害し秩序を乱す」絵葉書の氾濫を嘆き、「絵葉書の趣味目的はこれを通信に用うるに依りて郵便として取扱うべからざる風俗公安を害するもののごときは最も忌むべく最も取り締まらざるものたり」と憤りを示しています。
余談ですがこの時代、しばしば新聞紙上で「風俗壊乱絵葉書」「裸体絵葉書」が取り締まられる内容の記事が掲載されています。小学校教員が売買に携わり懲戒免職になった記事もあります。つまり「野卑拙劣風俗を害し秩序を乱す」絵葉書の存在は十分に社会問題化していたのです。

そこで、交通学館が立ち上がったというわけです。
交通学館は「明治23年交通事業の発達」に伴い「業界の羅針盤」となり「先頭に立って時世の潮流を指導せん」という目的により設立された組織のようです。十分に調べ切れてはいないのですが逓信省下での外郭団体ではないかと思います。
その組織力によりお手本となる絵葉書を発行し世の乱れを正したい、という主旨のようで、すなわち、「自ら絵葉書発行の計画を策し「交通紀念絵葉書」と題し回を重ね順を追うて交通に関する内外の新問題をとらえてこれに斬新警抜なる意匠と鮮麗優美の色彩とを配せるものを発刊し以て社会の耳目を新たにし風尚を清めんと欲して」と、抱負を述べています。

事実、この二枚一組の絵葉書は上質な出来上がりです。
「交通」誌同号には併せて当該絵葉書の詳細な解説として「甲は逓信省本館の浜離宮に面せる方を撮影、左に翠の松、薄桃色の菊花の裡、金色燦として山縣逓相仲小路次官の肖像を現わし、上に逓信省の徽章(きしょう)を出し金色の所は凸版を用い優美清麗を極む。日露戦端を啓くや戦時交通の経営画策は一に此建物内においてせられたるもので後世に紀念とすべきものである」と記されています。
また乙についても「中央に本春新築せられたる帝都の一偉観たる神田郵便局が第五回戦役記念絵葉書を発売する光景。左に市街の體裁(体裁)、右に電車運転の状況及び蒻鬱(こんもり)たる神田明神の森をブリウブラックに刷出し、十数町に続ける絵葉書を買う人が群集せる当時の光景見るがごとく、誠に稀代の壮観で今これを絵葉書に作製したのは実に紀念の紀念と言って良かろう。ことにこの絵葉書をして奇抜ならしめ手に取る者をしてアッと許に驚嘆せしめるのは上部に紀念絵葉書に紀念日付印を押捺すべく公衆が群集し来れる半身を刷り出し、下部には郵便局窓口において吏員が紀念スタンプ押捺方に忙殺されたる状を示したる意匠は卓抜斬新無類飛切と言わねばならない」と、絶賛(自画自賛ですが)しています。
さらに、材質についても言及されており、当初予定されていた用紙は戦争のこともあり品切れになっていたため、さらに上質な用紙へ変更したとされています。

「卓抜斬新無類飛切(たくばつざんしんむるいとびきり)」「紀念の紀念(記念の記念)」
これら最大限の言葉を尽くして形容する作品は、確かに「野卑拙劣風俗を害し秩序を乱す」粗悪な絵葉書に対抗する、プライドをかけた出来上がりです。
(ちなみに、デザインは樋畑雪湖氏、印刷は東京印刷株式会社という日露戦役絵葉書(第3回以降)の作製と同じ組み合わせです。樋畑雪湖という人についてはまた別の機会に蘊蓄してみたいと思います。)
元々「交通」誌370号付録の予定だったのが作製に時間がかかり371号付録へとずれ込んだという経緯があるほどです。


しかし...

交通学館の思惑では爆発的な人気により即完売(付録贈呈とは別に販売も行っています)という心積もりだったのでしょうが、どうやらなかなかそのようにはいかなかったようです。
販売が始まってから後も、「交通」誌上では同絵葉書の広告が掲載され続けます(再版なしというのが事実であれば初版を売り切るだけですが、何部刷ったのかは資料がありませんでした)。
その広告も、回を追うごとに内容が細かくなってくるのです。すなわち、いかに素晴らしい絵葉書であるかを強調する内容です。

最終的に同年10月10日発行の「交通」誌まで広告は続きました。(「交通」誌は月2回発行です)7月後半号から10月前半号まで広告が続くということ、広告そのものが回を追うごとに詳細になり素晴らしい作品であるかを強調する内容になって行ったこと、などから思うようには捌けなかったのではないかと想像するのです。(好評だったのは間違いないようで、付録が付いた871号誌の次号872号誌では、この絵葉書のおかげで繁忙になり発行が遅れた、ごめんなさい、という「館告」が掲載されています)
同年8月1日に日米海底ケーブルが開通します。8月10日発行の872号誌広告からは、交通紀念絵葉書に、この日米海底ケーブル開通記念の記念スタンプも押されていることが記載されています。なかなか捌けないのは記念スタンプがなかったから、という論法になったのかどうかはわかりませんが...
(ちなみに日米海底ケーブル開通記念の公式記念絵葉書(非売品)は「超」が付くプレミアです)


そこから第二回交通紀念絵葉書が見つからない理由を推測しますと(いや、あるのかもしれませんよ。翌年の「交通」誌は読めていませんから確認してはいないのです。そのうち読みに行きます)、第一回で金を使いすぎた(そりゃあね)。その割に目論見通りの爆発的な人気にならなかった、という点、しかも同年末あたりでは「交通」誌上でさえ絵葉書ブームは下火になったというコラムが載り始めるくらいですので、8月あたりからは、ぼちぼち飽きられ始めていたのかもしれません(絵葉書そのものは根強い人気を維持しますが「爆発的」な流行は終息に向かいます)。

以上の点から推測すると、第二回は発行されなかったのではないかと考えるのです...
いや、重ねて言いますが確認したわけではないので絶対ではないですよ。大阪ではこういう時「知らんけど」を末尾に付けるのです。

それが免罪符なのです(知らんけど)。


(参考)
逓信省発行日露戦役紀念絵葉書-その実相と意義-  向後恵里子著
「交通」誌  交通学館発行(公益財団法人通信文化協会郵政博物館 蔵)

2021年12月31日 (金)

古絵葉書 第一回交通紀念絵葉書(続編)

2018.5.5付の記事の続きになります。
いやあ、なかなかしぶといなあと我ながら思います。

ひとつの絵葉書を突き詰めて調べていくことの楽しさが、改めてこの「交通紀念」絵葉書で確認できました。
3年前の記事では日露戦役絵葉書の爆発的な人気を証左する、視覚に訴える一枚として取り上げました。
そして絵葉書そのものは、スタンプから日米海底電線開通の記念絵葉書として紹介しました。

すみません、間違っていました。
この絵葉書は発行者にとってはもう少し思い入れのある(建前にしても)ものでした。そして日米海底電線開通のスタンプについても事情があるようです。


調べた結果をお伝えしたいと思います。

まず、絵葉書です。本来二枚一組で発行されたものでタトウがありました。
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発行元は「交通学館」であり、雑誌「交通」の付録として発行されたようです。

実は雑誌「交通」に行き着くまでにずいぶんと時間がかかっています。
まったく別件で調べていた時に、1906(明治39)年7月26日東京朝日朝刊の記事で「交通紀念絵葉書 ...交通学館より雑誌付録として美麗なる紀念絵葉書を発行したり 二枚一組にて意匠は郵便博物館主任樋畑雪作(ママ 雪湖の誤り)氏の苦心になる 希望にはこれを頒つといへり」とあるのを見つけたのでした。

「犬も歩けば棒にあたる」というのは真実ですね。

そこからは調査の筋書きは立てやすく、「交通学館」「雑誌付録」というキーワードで調べにかかります。
しかし「郵政博物館」は馴染みがあっても「交通学館」はさっぱりでした。
それでも当時の逓信省は郵政(通信)のみならず運輸も包含する大きな組織でしたので逓信省の外郭団体ではなかろうかとあたりをつけたり、国会図書館(デジタル)やCiNiiなんかを漁り、ようやく「交通」というそのまんまな雑誌名に行き着いた(並行して絵葉書フルセットを現物で入手でき、タトウからも雑誌名を確認できました)のですが、雑誌付録ならその号になにか記事があるだろうと予想して、さて、明治39年の夏の号に検索がヒットしません。現存しないのか? とあきらめかけたのですが、いやいや郵政博物館での検索にヒットがありました。ただし、デジタル資料はない。

ならば読みに行くしかないではないか。

予約を取って行ってきました千葉県は行徳郵便局。ここの建物内にある郵政博物館資料センターへ。
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(余談ですが平日の限られた曜日のみ公開されています。詳しくは郵政博物館HPでご確認ください)


おっと、今日という日がもうすぐ終わってしまう。
今年もあと一時間ほどなので...


続きは明日にしよう。

2021年10月 1日 (金)

古絵葉書 国勢調査 その玖

例によって10月1日は国勢調査絵葉書です。

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1920(大正9)年10月1日の第一回国勢調査記念です。
エンボス加工がなされた奇麗な作品です。

第一回の国勢調査にあたっては印刷局内朝陽会製のいわゆるオフィシャルな絵葉書だけでなく、いろいろなところからバリエーション豊かに絵葉書が制作されています。当時の絵葉書人気のなせる業でしょう。いったい何種類ほど存在するのでしょうか。
なんとなく集めていますが、手持ちのコレクションで14種(第一回のみ)です。おそらくもっとあることでしょう。きりがないなあと思います。

今回の絵葉書もその中の一種類なのですが、裏面への記念切手と横須賀局による記念スタンプが押された明確なコレクターズアイテムです。はてさてどんな方が蒐集されていたのでしょうか。

絵柄についてです。
国勢調査を実施する東京市麻布区富士見台に設置された国勢院(臨時国勢調査局)の入る新館が映っています。そして当時の総裁である小川平吉が配されたデザインになっています。

小川平吉については以前(20150923)の記事で言及しましたが個人的にはお近づきにはなりたくない人かもしれません。果たして人望があったのであろうか。疑問に感じる人物です。

いずれにしても国を挙げての一大プロジェクトでした。
国立国会図書館デジタルコレクションでは「国勢院第一部」という大正10年に発行された書籍を読むことができますが、800人以上からなる大勢の職員を擁したこのチームはずいぶんと頑張っていたようです。同書籍の写真からは膨大な書類の山と机に向かう職員の姿が残されています。コンピューターはないのです。エクセルもないのです。
その中で簡易食堂が設けられていたことが記載されていました。昼食夕食を摂ることができたそうですが、メニューとしては玉子焼き、豚汁、ライスカレー、牛丼、そして謎の開化丼とやらが... 中身が気になります。

2021年2月21日 (日)

古絵葉書 四ツ橋

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大正から昭和初期にかけての大阪四ツ橋交差点の一枚です。
絵柄は明治末あたりから大正期の様子だと推測しますが、絵葉書そのものは3分の1線でありながら、オフセット印刷(たぶん)なので、大正中期が作製時期とするのが妥当かと思います。

なんといっても情報量の多い一枚です。

大阪市営電気鉄道(大阪市電)は1903(明治36)年に築港桟橋に開通してから紆余曲折を経ながらも大阪市内の足として延長されてきました。
ここ四ツ橋交差点に市電が通ったのは1908(明治41)年になります。鉄道が交差し、かつ東西南北をつなぐ渡し線も作られるという事で、完成時は「ダイヤモンドクロッシング」と呼ばれたそうです。
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上記は建設中の絵葉書になります。

さて、本題に戻りますが、絵葉書の絵柄は北から南を望んだ構図です。南方に市電が2両写っていますが、それよりも中央に写っている「変な」車両に注目してしまったのでした。
結論から言うと「散水車」です。当時は舗装された道路ではありませんでしたから市電が走ることにより砂埃が舞うことを防止する目的で導入されていました。(大阪市HP トップページ > イベント・観光 > 歴史・文化 > 大阪市指定文化財 > 
大阪市指定文化財(指定年度別) > 大阪市指定文化財(平成15年度) > 市電散水車25号車輌 )

さらに気になるのはやたらと制服の人間が立っているという事です。wikiの「四ツ橋」の頁に掲載されている写真も散水車がないだけでほぼ同じ構図ですが、ここにも多くの人が立っています。開通当初は安全確認のため人が配置されていたのでしょうか。いずれ調べてみたいと思います。

もう一点気になることがありました。橋の向こう側に塔が建っています。これは何でしょうか? 先に述べたwiki掲載の写真にも写っているこの塔は四ツ橋から随分と近い場所にあるように見えます。当時の高い塔と言えば調べられる限りでしたが、天王寺付近の通天閣と、難波付近の眺望閣ですが、前者は明らかに位置が違いますし形も違います。では後者はどうでしょうか? これも形が違いますしおそらく写真の塔の少し右側に写っているのがそれではないかと思うのです。

はて?

これからも調べていきたいと思います。(なんか中途半端だなあ)

2020年12月31日 (木)

古絵葉書 三輪車

2020年も今日で終わりです。
振り返ってみますとコロナ一色であったかと思います。来年も大変なんでしょうねえ。

さて、今年秋の四天王寺での古書市で見つけた一葉です。
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明治39年の消印(だと思う)が押されたものです。

最初に見た時、どうにもこうにも既視感、デジャヴを感じました。「なんか持ってたような気がする...」 いや、蒐集品が多くなってきますと、それに加えて加齢による記憶の劣化もありまして、持ってたか持ってなかったかが非常に怪しくなってしまうのです。
でもこの時代のこのタイプの絵葉書で「被り」はまずないだろうと思い購入したのですが、帰路に思い出しました。たしか持ってたぞ、この「三輪車」。

で、帰宅後に引っ張り出しました。そうそう、ブログにも載っけたことがあったような気がします。
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先の一葉と同じく明治40年までの様式ですが、三輪車の絵葉書です。
構図と衣装は違いますが背景を含め同じ三輪車と同じ少年(たぶん)です。なので同じ出版社から発行されたものと思われ、今回入手したものから「銀座上方屋」発行のものとわかりました。
銀座上方屋は絵葉書発行の黎明期を語る際には欠かせない大手発行元です。実は最近、これらの発行元にも興味が出てきましたので機会があればポツポツ書いていくことができればと思っています。

三輪車の歴史も調べてみましたが、子供用三輪車の歴史などというニッチな記録はおいそれとネットには転がっていません。これは本格的に図書館めぐりが必要になりそうです。

余談ですが、ネットがいくら発達しても、図書館はなくならないと思っています。むしろますます重要になっていくと... 加えて専門知識が重視されるようになると... だってネットに転がっていない知識を提供する場所としての図書館であれば、調べ物についての知識や洞察力などはとても大事です。それを助けてくれる司書さん達の存在はとても大切です。
なので、図書館を軽視する施策には賛同できないのです。
...どことは言わないけれど。


さて、あと30分ほどで今年も終わりです。今年も生き延びることができました。願わくば来年の今日も穏やかに迎えたいものです。

2020年11月24日 (火)

続 絵葉書の歴史について(朝日新聞報道から)

 前回、絵葉書の歴史について蘊蓄をかたむけましたので、関連して書いておこうと思いました。

 2020(令和2)年10月3日付朝日新聞夕刊の一面を飾った記事について少し言及してみたいと思います。と言っても私ごときのコメントなど大した内容ではないのですが、記事の内容は大したものなのです。

「絵はがき文化 開化の一枚」「120年前 認可当日の消印発見」と見出しが掲げられた記事ですが、はやい話、1900(明治33)年10月1日付消印が押された古絵葉書が発見されたという、その道では大した発見なのです。
(記事を画像で紹介したいところですが著作権に引っかかるのでできません。気になる方は図書館などで探していただければと思います)

 記事内容は以下のようなものです。
 「確認された絵はがきは、表面の1銭5厘の切手の上に明治33(1900)年10月1日の消印が押され認可初日に使われたことを示す。裏面には海辺の灯台のようなものが印刷されており、文字は書かれていない...」
 
 1900(明治33)年10月1日といえば何度も書いていますが日本における絵葉書の出発点として記録される日付です。逓信省令第42号で、郵便規則第18条に私製葉書の規定が含められたのがこの日付からなのです。
 この日付以前から海外の絵葉書文化に触れていた明治の先人たちがいましたので、当然「あるだろう」と考えられてきた日付の絵葉書なのです。東京のオークションに出たものらしいですが、落札したのはこの世界では有名な方で京都にいらっしゃる方です。(なお、記事内でコメントをしておられる方は私が寸葉会でずいぶんとお世話になっている方で、この方も京都在住の方です)

 当時の絵葉書趣味を持つ人物が記念に自分あての絵葉書を出した、というもののようです。「この日」について感想を付記していてくれたらよかったのになあ、とこれは個人の感想です。しかし記念日にその日付を記録し形として残したい、という気持ちはよくわかります。配達されてきた絵葉書を見てずいぶんと嬉しかったことでしょう。

 私の絵葉書蒐集のスタンスは、「広く浅く」写っているものの歴史を追いかけてみたい、というそれだけのものなのですが、このような発見が記事になるという事は胸が躍ります。古絵葉書が文化として社会に認知されていると考えてよいのでしょうか(職場で趣味を答えても頭の上に「?」しか見えません。関心を持ったコメントなんか聞いたことがありません。なので「旅行」「歴史散策」などと当たり障りのない趣味を、最近は答えてしまうのです)
 それほど認知されていないと思われる趣味なのですが、最近は復刻版の絵葉書も販売されたりしているので少しは変わってきているのでしょう(そう思いたい。けれど認知が広まりすぎると単価が上がって入手しにくくなるというジレンマが...)。


 ちなみに妻に対してこの記事の意義を熱弁したのですが、まったく反応がありませんでした。悲しいことです。

より以前の記事一覧