日記・その他

2021年9月 8日 (水)

おとらのしっぽ20周年

 誰も気にしないと思うけれど、「おとらのしっぽ」を初めて今日で20年になりました(パチパチ♪)

 2001年9月8日にサイトを開いてから、試行錯誤を重ねつつも地味に続けてきたつもりです。開設した当時は個人作成のサイトが盛んで、いろんな人が思い思いに様々なツールでサイトを作成しておられました。
 私もホームページビルダーやその他いろいろと使いながら頑張っていましたが、如何せんセンスがなく何度もやる気をなくしたものです。

 最近は、WordPress(ワードプレス)やWix(ウィックス)などといったお洒落な?ツールが提供されており(有償なのですが)、奇麗なサイトが容易に作成できるようになっています。
 私も別サイトでWixを使わせていただいており、とても親切な作りで、慣れれば記事の追加も容易に行える便利なツールだと感心しています。また、ここもそうなのですが、ブログという形態も記事を書き連ねるにはとても良いもので無償で良いサービスが受けられるようにもなりました。
 さらに昨今ではSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)というサービスも、自分で何かを発信したいと考えた時には有用です。

 ずいぶんと容易になったものです。

 おっかなびっくりサイトを開設した頃に比べて、なんと手軽になったものでしょう。進歩は素晴らしいものです。でも、それだけに不特定多数に発信する怖さを忘れないようにしたいと、年寄りの繰り言かもしれませんが、今更ながら思うのです。


 現在、本館をリニューアルしようとして四苦八苦しています。今現在の私にとって集大成的なものを作りたいと思っているのですが... なかなかむつかしいです。

 しかしやりたいことがあるというのは幸せなことで、仕事以外生きがいがないというのはきっと寂しいことなのでしょう。

 絵葉書と出会えてよかったです。

 お祖父さんありがとう。

2020年11月24日 (火)

続 絵葉書の歴史について(朝日新聞報道から)

 前回、絵葉書の歴史について蘊蓄をかたむけましたので、関連して書いておこうと思いました。

 2020(令和2)年10月3日付朝日新聞夕刊の一面を飾った記事について少し言及してみたいと思います。と言っても私ごときのコメントなど大した内容ではないのですが、記事の内容は大したものなのです。

「絵はがき文化 開化の一枚」「120年前 認可当日の消印発見」と見出しが掲げられた記事ですが、はやい話、1900(明治33)年10月1日付消印が押された古絵葉書が発見されたという、その道では大した発見なのです。
(記事を画像で紹介したいところですが著作権に引っかかるのでできません。気になる方は図書館などで探していただければと思います)

 記事内容は以下のようなものです。
 「確認された絵はがきは、表面の1銭5厘の切手の上に明治33(1900)年10月1日の消印が押され認可初日に使われたことを示す。裏面には海辺の灯台のようなものが印刷されており、文字は書かれていない...」
 
 1900(明治33)年10月1日といえば何度も書いていますが日本における絵葉書の出発点として記録される日付です。逓信省令第42号で、郵便規則第18条に私製葉書の規定が含められたのがこの日付からなのです。
 この日付以前から海外の絵葉書文化に触れていた明治の先人たちがいましたので、当然「あるだろう」と考えられてきた日付の絵葉書なのです。東京のオークションに出たものらしいですが、落札したのはこの世界では有名な方で京都にいらっしゃる方です。(なお、記事内でコメントをしておられる方は私が寸葉会でずいぶんとお世話になっている方で、この方も京都在住の方です)

 当時の絵葉書趣味を持つ人物が記念に自分あての絵葉書を出した、というもののようです。「この日」について感想を付記していてくれたらよかったのになあ、とこれは個人の感想です。しかし記念日にその日付を記録し形として残したい、という気持ちはよくわかります。配達されてきた絵葉書を見てずいぶんと嬉しかったことでしょう。

 私の絵葉書蒐集のスタンスは、「広く浅く」写っているものの歴史を追いかけてみたい、というそれだけのものなのですが、このような発見が記事になるという事は胸が躍ります。古絵葉書が文化として社会に認知されていると考えてよいのでしょうか(職場で趣味を答えても頭の上に「?」しか見えません。関心を持ったコメントなんか聞いたことがありません。なので「旅行」「歴史散策」などと当たり障りのない趣味を、最近は答えてしまうのです)
 それほど認知されていないと思われる趣味なのですが、最近は復刻版の絵葉書も販売されたりしているので少しは変わってきているのでしょう(そう思いたい。けれど認知が広まりすぎると単価が上がって入手しにくくなるというジレンマが...)。


 ちなみに妻に対してこの記事の意義を熱弁したのですが、まったく反応がありませんでした。悲しいことです。

2020年10月10日 (土)

古絵葉書 国勢調査 番外編

 10月7日締め切り予定だった今年の国勢調査期間が20日まで延長されたという件で、回答率の低さが大きな要因になっているとの報道でした。
 その回答率の低下は2000年以降年々増加し、直近(2015年)では13.1%であったといいます。今年は締め切り直前(6日)での回答率が35.1%でありこれでは延長もやむを得ないと思います。

 プライバシー意識の高まり? なにそれ美味しいの?

 普通にそう思います。国民として応える調査に対して一般庶民のプライバシーなどそれほど重要なのか。もちろん回答内容が一般に流出するならば論外ですが、この国勢調査は「国」としての最も基本的な調査でありこの統計情報を基に様々な政策だけでなく民間活力の基ともなるデータになるのです。
 まわりまわって私たちの生活に結びつくものです。

 なので思想信条などでいちびる類のものではないのです。

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 過去の絵葉書を通して、国勢調査が非常に重要なイベントであったことがひしひしと伝わってきます。
 国勢調査が始まった当時、「この調べに漏れては国民の恥」とまで言われた意識の高さはどうなったのか。戦前、戦後、軍国主義やらなんやら、イデオロギーの問題ではなく「国」「国民」の問題だと思うのです。
 
 日本国民の「民度」が高い? 何を言っているのだか。

 するべきこともやらない国民の「民度」のどこが高いのか。

 義務と権利のバランスが理解できない人は、自由には責任が伴うという事も言葉では知っていても実感として理解できていないことが多い。わたしはそう観察しています。

 そして少し苛ついています。

2020年6月30日 (火)

独り言 誰も気にしていない私の近況

 と、言うわけで正真正銘の独り言です。

 最近は「北の大火を調べる」に注力しておりいくつかの記事を当該サイトにupしましたが、ようやく落ち着いてきました。まだ書きたいネタはあるのですが、もう少し調査を重ねたいとも思うのです。
 思うに明治という時代は「坂の上の雲」を読んだだけでは掴みきれない時代なのだと今更ながら思い始めてきました。勉強しなくては...

 新型コロナ(この名称が世間的にはすっかり定着しました。厚生労働省もQAページでこの名称を使用していますが、新型コロナウイルスの正式名称は「SARS-Cov-2」であり、病気の正式名称は「COVID-19」というのがWHOが決めた名称です。15年ほど前に中国で流行ったSARSのVer.2ということでしょうか。ま、わかりやすいなら「新型コロナ」表記でも良いですね)の影響で寸葉会も中止になり新しい古絵葉書にも出会えていません。いや、手持ちはあるのでupはできるのですが、前述のように「北の大火」に注力していたものですから... と、誰に言うでもなく独り言です。

 それでもここ3か月、このブログを覗きに来てくださる物好きな方はいらっしゃるようで、ありがたいことです。で、検索してみますと... ???
 「独り言 ダイヤモンドシティ東住吉ショッピングセンター」がダントツ。4月、5月、6月とコンスタントに見ていただいてる... なんかあったのかな? 1970年代のノスタルジーが受けているのか? よくわからないです。


 その他近況では、調べ物で国会図書館関西館に行ってきました。京都府精華町にあるのですが新型コロナによる緊急事態宣言解除後ですが、図書館も再開したので行ってきました。流石にすごいですね。図書館で「感心」はよくするのですが「感動」したのは初めてでした。滋賀からならめちゃくちゃ遠いわけでもないので、リピーターになりそうです。わけあって人力車について調べているのですが、想像以上の資料を閲覧することができました。ありがとうございました。
 また、別の日には京都府立図書館にも行ってみました。古絵葉書関連の資料を閲覧するためですが、平安神宮のそばにあるこの図書館も良い図書館でした。勉強しやすいです。
 名誉のために言っておきますが、滋賀県立図書館も良く利用しており、ここも良い図書館です。公園の中で環境が良い。あたりまえかもしれませんが滋賀県関係の資料は群を抜いて多い。と、休日のちょっとした調べ物にはちょうど良いのです。
 図書館ついでですが、大阪府立中之島図書館も趣のある図書館です。北の大火や南の大火に関する資料が揃っています。建物も素晴らしいです。大阪維新の体制直後は潰されかけましたが残って良かったと心から思うのです。だいたい図書館が整理統合され過密になったらゆっくり調べ物もできないです。司書さんたちをはじめとした職員さんたちは座って窓口当番だけしてるわけではないでしょう。レファレンスであっちこっちの図書館にお世話になってる身としては、大変なお仕事に違いないと思うのです。
 大阪市立中央図書館は、これまた北の大火でお世話になりました。ここは大阪市公文書館に隣接しているのでついでの調べ物に最適なのです。

 別段図書館フリークでもなんでないのですが、図書館好きとしてはあれもこれもとなってしまうのです。もっとも相変わらずの上っ面な知識の知ったかぶりなのですが。

 だらだらとした独り言でした。

2020年2月24日 (月)

北の大火 特設サイト公開

 昨年末から頑張っていましたが、なんとか形になりました。
 私の蒐集した「北の大火」に関する情報の集大成です。じつは「雑記」とした部分の記事はまだまだ未完成で、いくつか掲載したい内容が残っていますが、とりあえずOPENにしたいと思いました。

 いや、毎日思っていたのですよ。今日事故で死んだら心残りだなあと。

 WiXで作ったのですが、いや、なんか大変でした。細かな自由度がないのですね。ただ簡単に作れると言えば作れますので良かったかなとは思います。(無料のプランで作りました)
 WordPressで作るのも良いとあったのですが、なんか難しそうなのと、まずは無料でと考えたので(なんかドメインをとって月額や年額を払い続けるプランだと死んだらサイトがなくなるのかなあと思っちゃったのですよ)比較的簡単そうなWiXにしました。まあ、それなりに大変でしたけど(何度も言います)。

 そのうち「おとらのしっぽ」本館も移転しようかと思います。そっちは有料プランにしようかなあ... 独自ドメインってカッコ良いし。

 いずれにしろ北の大火の特設サイト「北の大火を調べる」、本日2/24、公開しました。


 読んでほしいなあ。


(2020.06.02 追記)
 「北の大火を調べる」を独自ドメインにしました。こつこつ貯めていたお小遣いを(月になんと1,000円貯金)放出しました。
 2年後の更新までにまたこつこつ貯めないと^^;

2019年11月 1日 (金)

独り言 過去記事について

 時折(と言うか、しばしば)、過去記事を読み直すことがあります。

 当時の記事内容が十分でなかったり、それ以後に知見が広がり追加情報や間違いの訂正などを記したくなります。そこで追記として当時の記事に手を加えたりしています。
 ほとんど人に見られないブログではあっても、何かを書くからにはいい加減なことは書きたくないのです。間違うのは仕方ありません。書きっぱなしが嫌なのです。

 なのでたまに手を加えたり、最近ではリメイク版と銘打って書き直したりもしました。たぶんこれからはリメイク版は増えていくことと思います。ひとつの疑問に対する調査方法が広がっていくとますます知見が広がるからです。


 このブログにアプローチされる方の多くは、おそらく過去の風景画像などが主な目的になっているのではないかと思います。
 わたしもそのような画像は大好きです。明治・大正期の風景は今では失われた風景です。現代との変わりようなどと比較できれば、なお良いのではと思います。

 とはいえ、妙なこだわりも出てきまして、絵葉書を購入するときに「?」の浮かぶ絵柄は大好物です。調べることができるからです。時間がかかってめんどくさいのは事実なのですが、広く浅くでも疑問が解消しますと嬉しくなります。で、見せびらかしたくなります。ひけらかしたくなります。(そうです、不純な動機でブログを書いているのです)


 過去のどのような記事がよく読まれているか少し調べてみました。(2012年4月からの記事別です)

 意外や意外、1位は「下呂温泉」です。しかしこれはおそらく観光案内的な記事を期待して検索に引っかかるという流れだと思います。確かに調べることはいろいろあり、力も入れましたがさほど他人が読んでも面白い内容ではないと思うのです。

 次に「ミナミの大火」でした。うーん「北の大火」推しとしてはありゃりゃです。でも触れていただく機会が多いのであればもう少し記事に手を加えるなりして充実させようかとも思います。

 さて、3位に「九條幾子刀自林間幼稚園御参観記念 」が入ります。九条幾子という方は大正天皇妃貞明皇后の生母でいらっしゃいます。なるほど検索してもなかなかお顔の写った資料はヒットしませんので、そういう意味では貴重なのかもしれません。元々は梅田の古書店で500円で売られていた一葉です。 当時の林間学校に興味があっただけで何とはなしに購入したのですが、調べてみますと「当たり」でした。いろいろと勉強になることが多い絵葉書です。

 「関東大震災」がそれに続くのですが、これはおそらく【閲覧注意】の効果だと思います。同様にランキング外ではありますがシベリア出兵に係る【閲覧注意】も閲覧回数は多いようです。双方の記事中にも書いていたかと思いますが、災害・戦争いずれにも犠牲者はいます。見たくないものは見ないというのも自由ですが、現実をしっかりと見ることもまた必要ではないかと思います。そのような意味でわたしは掲載しています。絵葉書にはたしかに「無いものは無い」のです。

 「三条大橋(高山彦九郎)」も閲覧数が多いです。京都三条大橋のたもとにある土下座像と揶揄される彦九郎像は、確かに奇異な像ではありますが、その背景を調べるときに幕末のダイナミックな時代のうねりに至る魁として、大変勉強になる歴史でした。また後世、為政者(いせいしゃ)に利用された歴史も含めて良い教材として紹介できるものだと思います。「皇室賛美」の一括りで切り捨てるようなつまらない教育ではなく使い方によっては左系の先生方にも良い教材になるのではないかと思うのですが如何でしょうか。(しかし高山彦九郎がらみの絵葉書がいつの間にか増えていたなあ)
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 ライフワークの「キタの大火」はあまり読んでもらえていないようです。思いが強すぎて空回りして中身が薄いのだと反省しています。ちょっと考えなおそうと思います。ちょうど今、関連する記事(大作です)を執筆していますがこれも空回りしそうです。これらについては本館(ホームページ)で落ち着いた記事にした方が良いのかもしれません。


 とまあ、振り返ってみたのですが、記事が全体的に薄いですね。調べたことをわかりやすく且つ濃く深く書くということはとても難しいです。過去記事を読み返したとき削除したくなる時もあります。でも当時の私が書いたものですから今の私が責任をもってフォローしてあげなくては可哀想じゃないかと思うのです。

 なのでまだまだ続けようと思います。
 とりとめのない独り言でした。

2019年10月27日 (日)

独り言 昭和42年のひとコマ

 実家の片づけをしていたら出てきました。

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 「さくらカラー」懐かしいです。昭和42年ですから私は2歳です。おいおい、今じゃこんなおっさんになってるよ。

 さくらカラーは現在のコニカミノルタ(のコニカの方)がかつて販売していた写真用カメラフイルムのブランドです。当時は小西六写真工業株式会社という会社名でした。日本におけるシェア1位を誇っていましたが後発の富士写真フイルム(フジカラー)にいわば物量戦で負け、現在ではフイルム事業から完全に撤退しているようです。そういえば中学生の頃、写真にハマってましたがフジカラーしか買わなかったなあ。サクラカラーは安売りしていたようなおぼろげな記憶が...

 袋の中に入っていたのはモノクロの写真でした。

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 写っている愛くるしい幼児の事は横に置いておくとして、たぶん大阪の天王寺動物園での一コマです。
 もちろん記憶はほぼないのですが、特別なお出かけであったのは間違いありません。どこからどうみても「よそ行きの格好」です。

 改めて思うのは「ゴミだらけ」だなあということです。

 子供のころは公共の場所(道も含めて)にゴミが落ちているのは当たり前の光景でした。
 高度経済成長の中、明らかに環境衛生は後回しになっていました。また、人々の公共意識も置き去りにされていたのかもしれません。古絵葉書を扱っていますが、明治大正期の方が公共の場所は綺麗です。

 今、しきりに「日本凄い」と自画自賛していますが(否定はしていません。日本は凄く良い国だと思います)、ちょっと前はこんな風景だったのだと、これも忘れてはいけないことだと思うのです。

 自戒のために。

 小学生のころは列車(長距離列車)の中での喫煙は当たり前で、駅のホームからのたばこのポイ捨ても当たり前でした。道路上にもゴミやたばこの吸い殻は普通に落ちていました。
 小学校の先生から、おそらくシンガポールのことではないかと思うのですが、ごみの落ちていない国の話を聞いたとき、全く想像もつかなかったのです。「ごみを捨てたら罰金を取られる」というのは、今風に言えば「都市伝説」かと当時は思ってしまうことでしょう。

 しかし、今の日本はそれを実現しています。もちろん完全ではないのですが、少なくとも落ちているごみが目立つくらいには清潔になりました(地域差があるかもしれませんが)。
 これは教育により民度が上がったということなのでしょう。また日本人が大好きな「同調圧力」が良い方向に働いた例だと思います。

 素直に称賛したいと思います。

 なので将来にわたって維持していく努力を放棄しないようにするべきなのです。
 スポーツの応援でスタンドを清掃するサポーターを偽善だなんだと批評するのは「馬鹿」だと思うのです。たとえ偽善だろうとファッションだろうと続けていかないと日本はすぐに劣化するのです。私も含めそのような危うさをこの国の人たちは内包しているのだと、昭和40年から50年代の光景を思い出すなら、そう考えてしまうのです。

 とりとめのない独り言でした。

2019年8月18日 (日)

独り言 ダイヤモンドシティ東住吉ショッピングセンター

 片づけをしていたら子供のころの写真やネガフィルムが出てきました。そういえばハーフサイズカメラだったかポケットカメラを持っており、よく写真を撮っていました。決して裕福ではなかったので、撮ったものをすべて現像・プリントに出してはもらえませんでしたが、それでも残っているものはあるんだなあと、ちょっとタイムスリップしました。

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 かなり画質が悪い(しかもピンボケ)ので見づらいのですが1970年代のダイヤモンドシティ東住吉ショッピングセンターの姿です。家の窓から毎日見ていた景色です。

 「ダイヤモンドシティ」と言われてもピンと来ないかもしれませんが、当時のジャスコ株式会社と三菱商事との共同出資で設立された会社で、後にイオンモール株式会社に吸収されています。この東住吉店はダイヤモンドシティの1号店として1970年にオープンしました。現在に、あまたあるショッピングモールのはしりだと私は思っています。オープン当初の賑わいは子供心によく覚えています。ボウリング場が併設され、夏にはプールで楽しむこともできました。オープンスペースの2階には喫茶店だったか軽食を食べることのできる店があり、そこで鉄板の付いたお皿に乗るナポリタンスパゲッティを生まれて初めて食べた私は、驚くほどのカルチャーショックを受けたのでした。

 通称、「ジャスコ」であり、スーパーと言えば「ジャスコ」と幼心に刷り込まれたのでした。なので今でもイオンにはなんとなく愛着があります。

 ふふ、思い出はすべて美しいものだぜ。


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 覚えている限りの解説です。間違っていたらごめんなさい。そして今の姿を併せて載せます。同じアングルからは撮れなかったので少しわかりにくいですが、紀陽銀行の建物は変わっていませんので脳内補完してください。

 なお、ケンタッキーがこの当時あったのは、日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社が三菱商事とKFCコーポレーションとの合弁により設立された会社であることから、三菱商事つながりでここに開店したのではないかと推測します。この場所にKFCが開店したのはダイヤモンドシティ開店から数年後だったと思うのですが、それにしてもKFCとしては早い段階の店舗だと思うのです。こんな片田舎によく出したものだ。わたしは大好物でしたが滅多に買ってもらえませんでした。ごくたまに百円握りしめてフライドポテト(当時のぶっといポテトが好きで、後にマクドで食べることになるポテトの細さがどうしても気に入らなかったものです)”だけ” 買いに行ってました。涙ぐましい少年時代だ。

 現在ではイオン喜連瓜破駅前店となっていますが、建物自体はとうの昔に建て替えられています。マックスバリューにならなかったのは慰めですが、ちょっと寂しいですね。

2019年8月14日 (水)

独り言 祖父について

 8月のこの時期なのでなんとなく祖父の事を書きたくなりました。絵葉書を残してくれた母方の祖父と、それほど交流があったとは言えないですが、妻の祖父(つまり義祖父)についてです。

 祖父は私の生まれる前に亡くなっていますので会ったことはありません。体の弱い人であったようです。
 徴兵はされたものの虚弱だったかですぐに帰されたようです。真新しい奉公袋と軍隊手帳が残って(どこかに仕舞い込んで出てこない...)いますので徴兵検査には合格したのだと思います。しかし応召後すぐに帰され、裏口からこっそりと帰宅したと伯母たちから聞いたことがあります。

 叔父や叔母、伯母たちは否定するかもしれませんが、応召に応えることができなかった、ということが祖父にとっての生涯のコンプレックスだったのではないかと思います。
 戦後、祖父は家業の縫製業よりも神道系の宗教に没入します。滝に打たれるなどの修行を繰り返していたと母からも聞いていますが、信貴山にある小さな神社に雇われ神主としておさまったりしていたようです。その神社の名前はよくわかりません。叔母は数年前に行ってきたと言っていましたが、今は韓国人に買われ朝鮮系の神様が祀られているそうです。経緯はわかりませんがよくあることのようです。
 母から聞いた祖父にまつわる話としては、庭で護摩焚きの際、祖父の裂帛の気合と共に炎が吹き上がったといいます。
 また、散歩中に突然見知らぬ家から人が飛び出してきて、病気の家人に祈ってくれと言われ祈ったら病気が治ったというような、本当か嘘かわからない話もありました。なんでも家の人が病人のために祈っていると「今、家の前を歩いている者に縋るよう」お告げがあったそうです。
 うーん、本当かよ爺ちゃん。

 本当か嘘かは別として祖父を慕う人は増えていき、やがて、ちょっとした集団が出来上がりました。弟子たちからは教団にしようという話もあったそうですが、それは断ったようです。
 ...教団にしておけば、もしかすると母が二代目になり私が三代目になっていたかもしれません。今頃左団扇で暮らしていたかもしれないじゃないか。惜しいことをしたぜ。
 しかし宗教については勉強熱心であり、神道に限らず仏教、キリスト教についても調べ、独自の宗教観を構築していたようです。しかしおそらくは体系的な教義を打ち立てることまではできなかったものと思われます。
 祖母の遺品のなかに祖父の遺品も含まれており、祖父の書いた手帳もありました。たまたま見つけたので読んでみましたが、たしかに様々な宗教観がごっちゃになっており、なかにはナポレオン・ヒルの考え方(思考は実現するなど)そのものまで含まれていました。昭和20~30年代にここまで勉強していたなら、そりゃあカリスマにもなろうというものだと変に納得したものでした。(手帳の中身は実際いろんな教義の寄せ集めで斬新な思想もなく(当時の私から見ても)あまり学ぶべきものはありませんでした。片付けの過程でいつも間にやら叔母たちに捨てられてしまったようです)

 昭和三十年代、地元の人々を組織し皇居へ清掃の奉仕へ行ったりしていたようです。吹上御所前で昭和天皇・香淳皇后からお言葉をいただいている集合写真が二枚残っています。ずいぶんと誇らしいことであったようです。


 義祖父について。
 とても温厚で良い方でした。何年も前に亡くなったのですが、私のような者にも気さくに昔話を語ってくださいました。

 九州出身で、戦前戦中は満州で満鉄の職員として働いておられたようです。話を聞く限り下働きのようでしたがそれでも給料がすごく良かったと言っておられました。
 冬の早朝、トラックのエンジンをかけるために...なんと言っておられたか、がちがちに凍り付いているものを融かすことから毎日が始まった、とか、休暇がとれたなら満鉄乗り放題で大陸を観光した、というような話を懐かしそうに話してくださいました。(遺品の中に満州の名所を網羅した写真集が残っています)
 そこそこ持っていた貯金は、どうやら終戦間際の満州脱出の際になくなってしまったようです。満鉄職員ということで情報を得やすく、まずいと思った時に家族もろともすばやく脱出したようです。(これについては賛否あるかと思いますが、私自身、家族を守るためなら手段を選ばず逃げることでしょう。責める気にはなりません)
 命からがら日本へたどり着き、その過程で貯金はそのほとんどを使ってしまったようです。

 満鉄時代の話はもっと聞きたいと思い、今度は録音させていただこうと思っていた矢先、脳溢血で倒れられ亡くなりました。
 悲しい出来事でした。


 8月のこの時期、いろいろな意味で二人の祖父が偲ばれます。

2019年7月21日 (日)

人類いま月に立つ 読売新聞(昭和44年7月21日 夕刊)  「怒られたら削除します」編

 迷っているうちに今日になってしまいました。7月21日、アポロ11号月面着陸、祝50年。

 よくよく考えてみますと、「おとらのしっぽ」は営利目的ではないのです。利益などなーんにもありません。(自己満足だけです)
 と、言うことは文化庁さんの仰る

 [1] 侵害者が,侵害行為の対価として財産上の利益を得る目的又は有償著作物等(権利者が有償で公衆に提供・提示している著作物等)の販売等により権利者の得ることが見込まれる利益を害する目的を有していること

 という1番には抵触しないんじゃないのか。

 ならば非親告罪の対象にならないかもしれない、と生半可な知識を振り回し、ええい、新聞社さんに怒られたら削除するから許して! っていうある種の「ひらきなおり」でやっちゃうことにしました。
 
 ごめんなさい、読売新聞社さん。

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 アポロ11号月面着陸の紙面です。遠くからの写真という形なのでお目こぼし願えないでしょうか。

 この取り上げ方、紙面の写真(中継画像からでしょう)を見るだけでアポロ月着陸陰謀説がナンセンスだと感じるのはわたしだけでしょうか。
 衆人環視の中でのペテン行為を行うほどアメリカにメリットがあるとは思えないのです。ソ連に負けるな、はわかりますが、もしこれ(ペテン)がばれたら威信は地に堕ちます。そのリスクはあまりにも大きい。
 (もっとも月着陸についてはきちんと検証しておられるサイトはあります。勝手にリンクさせていただきましたが丁寧な検証がなされていると感じました)

 「お子さまのためにきょうの新聞を保存しておいてあげましょう by富士銀行」

 良いことを言ってくれました、みずほ銀行さん。今の体たらくが嘘のような立派な都銀です。
 お子さまどころか孫が保存しておいてくれたことを喜んでいますよ。


 さて、アポロ計画にはささやかながら日本の技術も貢献していたようです。いくつかの広告を見てみましょう。

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 ミノルタの露出計技術が参加していたようです。

 また、

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 ソニーのテープレコーダーです。当時は「テープコーダー」と呼称していたようです(Wikiに書かれているとおりです)。

 両社とも以後、躍進を続けていく企業です。
 しかし、今はその頃の面影はありません。残念なことです。


 もうひとつ面白いものがありました。アポロとは関係なのですが、

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 カルピスです。この象徴的なマークが(紆余曲折の果て)1990年に使われなくなり、その後はアサヒ飲料の子会社となってしまったのでした。まあ、今でもブランドは残っており、美味しくいただけるのですけどね。(子供のころのカルピスは薄かったなあ、母は息子には絶対に作らせてくれなかったような記憶があるよ)
 で、景気の良かったカルピスの景品が「マツダファミリア ロータリークーペ」です。わたしは今、マツダ車に乗っているので大変に興味深いです。ロータリーエンジン、今の車の納車までの一カ月、RX-8に乗せてもらったけれど燃費悪かったなあ、よく走ったけど」

 
 で、なんだかんだと紙面を紹介してしまいました。
 
 読売新聞社さん、たぶんこんなマイナーなブログ読まないと思うけど、怒られたらすぐ消しますのでごめんなさい。


 ちなみに... この記事のアップは11:56:20(月面着陸の日本時間に設定しました。
 それにしても... 痒いです。

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